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文京区を通る中山道ってどんな道?東京・江戸の五街道

投稿日:2022/12/03by 
文京区を通る中山道ってどんな道?東京・江戸の五街道

文京区には中山道(なかせんどう)と呼ばれる江戸時代につくられた街道が南北に貫くように通っており、現在でも都市の主要な道路として利用されています。では、この由緒ある中山道とはどのような街道なのでしょうか。今回はこの中山道についてまとめてみました。

 

中山道を含む五街道とは

五街道とは、慶長6年から7年にかけて江戸時代に幕府が整備した江戸(現在の日本橋)と全国を結ぶ5つの主要道路を指します。そのため五街道は「東海道」「中山道」「甲州街道」「奥州街道」「日光街道」の5つの街道の総称になります。

この街道は、大名が参勤交代をする際に使われ、街道沿いには宿場が設けられました。また、街道にある関所では、各藩の大名の人質として江戸に住まわせていた妻や子どもが通らないかを確認することや、武器が持ち込まれることを監視する役割がありました。特に東海道の箱根・新居、中山道の碓氷・木曽福島は、四大関所として江戸防御の重要拠点に位置付けられていました。

 

中山道と東海道

五街道の中でも特に、中山道と東海道は江戸と京都の二大都市を結んでいるため重要とされ、日本橋から三条大橋までのルートとなっています。

中山道は、本州中部の内陸側を経由し、江戸と京都を結ぶ全長約534kmの大幹線道路として機能しました。中山道を利用する理由の一つとしては、東海道では、大井川の増水による通行止めや名古屋の「宮」から「桑名」間では船を要するといぅた難所があり、女性には厳しいルートであったため、これらを回避するルートとして用いられることもありました。このようなことから、江戸の末期には、皇女である和宮が婚約を破棄し、幕府の意向を受け江戸へ降嫁する際に中山道を利用しました。そのため、中山道の道中には和宮に関する立て札などもあります。

明治以降の東海道と中山道

そのような歴史のある東海道と中山道ですが、参勤交代のなくなった明治以降は少しずつ明暗が分かれていきます。

東海道は明治以降も主要な都市をつなぐ主幹道路となったため、多くの都市と共に道路も開発され、現在では江戸時代の面影を感じる場所は少なくなってしまいました。一方、中山道は明治以降少しずつ開発から取り残されていったため、街道自体もそれほど開発されずにすみ、今でも江戸時代の面影を感じることができる場所が多く残っています。

 

 

中山道はどのような場所を通るのか?

では、中山道はどのような場所を通っているのでしょうか。

江戸幕府による中山道の整備では、律令時代からの東山道をもとに街道が整備され、67箇所の宿場が置かれました。これに東海道と共通の草津・大津の宿場を併せて「六十九次」と数えられます。「中山道六十九次」の宿場には、以下のような場所があります。

中山道の地図

東京都

・板橋宿「いたばし」(東京都板橋区)

埼玉県

・蕨宿「わらび」(埼玉県蕨市)・浦和宿「うらわ」(埼玉県さいたま市浦和区)・大宮宿「おおみや」(埼玉県さいたま市大宮区)・上尾宿「あげお」・(埼玉県上尾市)・桶川宿「おけがわ」(埼玉県桶川市)・鴻巣宿「こうのす」(埼玉県鴻巣市)・熊谷宿「くまがや」(埼玉県熊谷市)・深谷宿「ふかや」(埼玉県深谷市)・本庄宿「ほんじょう」(埼玉県本庄市)

群馬県

・新町宿「しんまち」(群馬県高崎市)・倉賀野宿「くらがの」(群馬県高崎市)・高崎宿「たかさき」(群馬県高崎市)・板鼻宿「いたはな」(群馬県安中市)・安中宿「あんなか」(群馬県安中市)・松井田宿「まついだ」(群馬県安中市)・坂本宿「さかもと」(群馬県安中市)

長野県

・軽井沢宿「かるいざわ」(長野県北佐久郡軽井沢町)・沓掛宿「くつかけ」(長野県北佐久郡軽井沢町)・追分宿「おいわけ」(長野県北佐久郡軽井沢町)・小田井宿「おたい」(長野県北佐久郡御代田町)・岩村田宿「いわむらだ」(長野県佐久市)・塩名田宿「しおなた」(長野県佐久市)・八幡宿「やわた」(長野県佐久市)・望月宿「もちづき」(長野県佐久市)・芦田宿「あしだ」(長野県北佐久郡立科町)・長久保宿「ながくぼ」(長野県小県郡長和町)・和田宿「わだ」(長野県小県郡長和町)・下諏訪宿「しもすわ」(長野県諏訪郡下諏訪町)・塩尻宿「しおじり」(長野県塩尻市)・洗馬宿「せば」(長野県塩尻市)・本山宿「もとやま」(長野県塩尻市)・贄川宿「にえかわ」(長野県塩尻市)・奈良井宿「ならい」(長野県塩尻市)・藪原宿「やぶはら」(長野県木曽郡木祖村)宮ノ越宿(みやのこし)(長野県木曽郡木曽町)・福島宿「ふくしま」(長野県木曽郡木曽町)・上松宿「あげまつ」(長野県木曽郡上松町)・須原宿「すはら」(長野県木曽郡大桑村)・野尻宿「のじり」(長野県木曽郡大桑村)・三留野宿「みどの」(長野県木曽郡南木曽町)・妻籠宿「つまご」(長野県木曽郡南木曽町)

岐阜県

・馬籠宿「まごめ」(岐阜県中津川市)・落合宿「おちあい」(岐阜県中津川市)・中津川宿「なかつがわ」(岐阜県中津川市)・大井宿「おおい」(岐阜県恵那市)・大湫宿「おおくて」(岐阜県瑞浪市)・細久手宿「ほそくて」(岐阜県瑞浪市)・御嶽宿「みたけ」(岐阜県可児郡御嵩町)・伏見宿「ふしみ」(岐阜県可児郡御嵩町)・太田宿「おおた」(岐阜県美濃加茂市)・鵜沼宿「うぬま」(岐阜県各務原市)・加納宿「かのう」(岐阜県岐阜市)・河渡宿「ごうど」(岐阜県岐阜市)・美江寺宿「みえじ」(岐阜県瑞穂市)・赤坂宿「あかさか」(岐阜県大垣市)・垂井宿「たるい」(岐阜県不破郡垂井町)・関ヶ原宿「せきがはら」(岐阜県不破郡関ヶ原町)・今須宿「います」(岐阜県不破郡関ヶ原町)

滋賀県

・柏原宿「かしわばら」(滋賀県米原市)・醒井宿「さめがい」(滋賀県米原市)・番場宿「ばんば」(滋賀県米原市)・鳥居本宿「とりいもと」(滋賀県彦根市)・高宮宿「たかみや」(滋賀県彦根市)・愛知川宿「えちがわ」(滋賀県愛知郡愛荘町)・武佐宿「むさ」(滋賀県近江八幡市)・守山宿「もりやま」(滋賀県守山市)・草津宿「くさつ」(滋賀県草津市)・大津宿「おおつ」(滋賀県大津市)

 

中山道の有名な宿場

では、中山道の中で有名な宿場はどのようなものがあるのでしょうか。ここでは、いくつかの宿場を取り上げてみました。

板橋宿

江戸時代には、東京大学の敷地(本郷7丁目)には加賀藩前田家の上屋敷があり、この板橋宿のそばに前田家は下屋敷を構えていました。前田家五代藩主の前田綱紀が、板橋宿平尾の地に6万坪の土地を拝領し、最終的には約21万8千坪の広大にな土地となり、江戸と周辺に所在するすべての大名屋敷の中でも最大の面積を有するほどにまでなりました。

明治以降は、下屋敷後に陸軍の火薬製造所が発足し、昭和15年(1940年)には、東京第二陸軍造兵廠に改編されました。現在では、加賀西公園として地域の住民に親しまれています。

軽井沢宿

中山道の道中には、旧軽井沢が含まれています。旧軽井沢は、軽井沢駅の北に位置する場所にあり、当時の中山道は旧中山道とされています。

旧中山道・旧軽井沢

明治11年には旧軽井沢近くに明治天皇が行在所(あんざいしょ)を建てたことから、軽井沢は、皇室とのつながりも深い場所としても有名です。旧軽井沢にある軽井沢テニスコートは、明仁親王が美智子様と出会った場所としても知られています。その他にもロシア革命の際には、ロシア人が軽井沢へ移り住んだことからピロシキのような伝統的な海外の料理も伝わっています。

奈良井宿・妻籠宿

奈良井と妻籠は、両方とも「重要伝統的建物群保存地区」に選定されており、現在でも当時の宿場が残る地域として多くの観光客が訪れます。

奈良井宿は、東海道との共有する草津・大津宿を除く中山道67宿の中で34番目に位置する真ん中の宿場町です。奈良井宿は、難所の鳥居峠を控え、多くの旅人で栄えた宿場町は「奈良井千軒」と謳われました。妻籠は、木曽谷の西南端部に位置しており、南北に連なる約6kmの山峡の村です。蘭川とその支流の男川の形成する河岸段丘には、1kmにおよぶ妻籠宿を中心に、いくつかの集落が点在しています。

奈良井宿

関ヶ原宿

関ヶ原宿から今須宿の区間は、慶長5年(1600年)に徳川軍と石田軍との間で関ヶ原の戦いがあった場所です。今須峠や北国街道、伊勢街道などを控えており、当時は賑わった宿となっていました。今須峠は、現在でも冬になると交通の難所となっています。

 

文京区内の中山道

文京区を通る中山道のルートは、以下のようになります。中山道は、本郷では東大前の「本郷通り」とも呼ばれており、湯島では、湯島聖堂の裏側や神田明神の手前を通る大通りとなっています。文京区内のそれらの地域を除くとそれぞれの住所の境界に位置しているのがわかりますね。

中山道の東京都文京区のルート

 

中山道と関わりのある人物

最後に、中山道と関わりのある歌川広重と松尾芭蕉を取り上げてみたいと思います。

歌川広重

歌川広重は、天保6年から8年(1835〜1837年)頃にかけて浮世絵師である渓斎英泉と共に「木曽街道六十九次」を描きました。「木曽街道六十九次」は、江戸・日本橋と京・三条大橋を結ぶ中山道の69箇所の宿場と出発点である日本橋の合計70点で構成されています。また、歌川広重の作品としては、五街道のひとつである東海道を描いた「東海道五十三次」(天保5年(1834年)出版)も有名です。

松尾芭蕉

松尾芭蕉が木曽路(中山道)を訪れた2回あるとされています。1回目は貞享2年(1685年)4月、42歳の時で、名古屋(愛知県名古屋市)を経由して木曽路に入り、甲斐(山梨県甲府市)を経て、江戸に到着したとされています。2回目は、貞享5年(1688年)8月、45歳の事で美濃国から信州更科に旅した約20日間の行程を「更科紀行」に記載しています。そのため、中山道の道中では松尾芭蕉の俳句が書かれた看板を見かけることができます。

軽井沢の芭蕉の詩

旧軽井沢にある芭蕉の看板

 

中山道と五街道のまとめ

いかがだったでしょうか。普段は何気なく利用している中山道ですが、歴史を詳しくみていくと面白いですね。軽井沢などは行く機会がありましたら旧中山道を意識して歩いてみるのも面白いかもしれません。文京つーしんでは、皆様の役に立つ情報を配信しておりますので引き続きよろしくお願いします。

 

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