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文京区湯島にある三組坂の名前にもなっている「三組」とは?

投稿日:2023/09/29by 
文京区湯島にある三組坂の名前にもなっている三組とは?

文京区は本郷台地や小石川台地といった台地の「きわ」が多くあり、坂道となっている場所が多くあります。また、それぞれの坂道には案内板が設置されているため、現在でもその土地に関する情報を得ることができます。そこで今回は、文京区湯島にある三組坂(みくみざか)と周辺地域についてまとめてみました。

 

文京区湯島にある三組坂ってどこの坂?

三組坂は文京区湯島3丁目に位置し、不忍通りから神田川方面へ別れる452号線と湯島2丁目の間にある坂です。坂下の交差点は「三組坂下交差点」、坂上の交差点は「三組坂上交差点」という名前がついています。

東京都文京区湯島の三組坂の地図

2023年9月現在、三組坂下の交差点にはガソリンスタンドやスーパマーケットがあります。このほかにも、三組坂の中腹には、お寿司屋や日本薬科大学の第二キャンパス、坂上にはホテルやカフェもあります。

東京都文京区湯島の三組坂の写真

左:三組坂下 中:中腹 右:三組坂上

また、三組坂上は南側からの清水坂との合流地点になっており、東都文京病院霊雲寺といった施設を利用する際にはこれらの坂を登ることがあります。

 

三組坂の由来とは?

では、湯島の三組坂の由来はどのようなものなのでしょうか。

三組坂の由来は文京区教育委員会の看板に以下のように書かれています。

元和2年(1616)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お付きの中間(ちゅうげん)・小人(こびと)・駕籠方(かごかた)の「三組」の者は江戸へと召し返され、当地に屋敷地を賜った。駿河から帰ったので、里俗にこのあたり一帯を駿河町と呼んだ。その後、元禄9年(1696)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を「三組町」と改めた。

この町内の坂であることから「三組坂」と名づけられた。

元禄以来、呼びなれた三組町は、昭和40年(1965)4月以降、今の湯島3丁目となった。

文京区教育委員会 平成19年(2007)3月

つまり、三組とは徳川家康のお世話をしていた、中間・小人・駕籠方の三組の職業のことを指しているようですね。

明和9年(1772年)の明和の大火の後には、三組町の組屋敷は、現在の湯島2丁目の本郷春木町に移されています。

現在この文京区教育委員会の看板は、ホテル「江戸屋」の前で見ることができます。

東京都文京区湯島のホテル「江戸屋」

 

中間(ちゅうげん)・小人(こびと)・駕籠方(かごかた)とは?

では、この家康のお付きの中間・小人・駕籠方とはどのような職業だったのでしょうか。

江戸幕府における職業上の制度は五役(ごやく)と呼ばれ、この3つと黒鍬之者(くろくわのもの)・御掃除之者(おそうじのもの)を加え5つに分類されていました。

中間(ちゅうげん)とは

御中間とも呼ばれます。

中間は、江戸城内の警備や、御使い、将軍が遠出する際の随行などに従事する役職のことです。

将軍の場合はわかりませんが、通常は警備をする役職とはいえ武士ではないらしく、殆どが口入れ屋からの紹介で勤める奉公人(ほうこうにん)と呼ばれる立場だったようです。そのため、武士と平民の間の身分として「中間」と呼ばれていました。

江戸城内の中間の定員は、540人から560人となり、人々は大中小の三組に分けられ、それぞれの組頭と御中間頭3人によって統括されていました。

小人(こびと)

御小人とも呼ばれます。

小人は、江戸城中の女中や奥役人が出入りする際の供奉や玄関・中之口などの警備、御使や物品の運搬などを職務とする役職のことです。

定員数は450人ないし500余人となり、人々は三組に分けられ各組に頭1人がおかれました。

駕籠方(かごかた)

駕籠方は将軍や世子が乗る駕籠を担ぐ役職のことです。

徳川家康の存命中には御駕籠頭1名、御駕籠之者が31名いたされています。将軍の身近に使える立場であるため、たとえ親兄弟であっても「いっさいの秘密を知らせること禁じる(一切洩す申間敷事)」が規則としてありました。

 

現在の三組はどうなっているの?

では、当時の三組の家系のかたは現在どのようになっているのでしょうか。

現在でも三組の名残は残っており、昭和27年4月に三組町会で再発足しています。

また、平成18年には髙浪会長を中心にして町会活動を行い、近隣町会(新花会、三組弥生会、三組町会)でSYM三町会災害連合会を結成しました。現在でも当時の三組は三組町会として、合同防災訓練や救命講習会、防災訓練や湯島天満宮祭礼時の町内祭、ラジオ体操と年末の夜警は毎年行い、納涼会と日帰りバス旅行を隔年で行っているようです。

江戸時代の三組が現在でも町内会として活動されているのは素晴らしいですよね。人の入れ替わりの多い東京でもこういった方々が地域の安全を守っていることがわかります。

 

三組坂周辺の施設

最後に三組坂周辺にある文京区湯島の施設について見ていきましょう。三組坂周辺の施設には以下のようなものがあります。

宝林山霊雲寺

東京都文京区湯島にある宝林山霊雲寺

宝林山霊雲寺は、東京都文京区湯島2丁目にある真言宗霊雲寺派総本山の寺院になります。元禄4年(1691年)に五代将軍徳川綱吉の命令により、将軍家の武運長久の祈願寺として浄厳律師覚彦により創建されました。重要文化財として、絹本著色弥勒曼荼羅図・絹本著色十六羅漢像 16幅などが保管されており、文京区指定有形文化財としても「絹本著色薬師三尊像」「絹本著色五秘密像」などがあります。本堂は関東大震災と第二次世界大戦で焼失し、現在の本堂は昭和51年に再建されました。

湯島天神・湯島天満宮

東京都文京区湯島にある湯島天満宮

湯島天神・湯島天満宮は東京の代表的な天満宮です。学問の神様と知られる菅原道真公を祀っているため、受験シーズンには多数の受験者が訪れます。湯島天神は、社伝によると雄略天皇2年1月(458年)、雄略天皇の勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建されたと伝えられています。南北朝時代の正平10年(1355年)には、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀しました。また、徳川家康が江戸城に入ってからは徳川家の崇敬も受けています。

 

文京区湯島にある三組坂のまとめ

いかがだったでしょうか。湯島には三組坂の他にもいろいろな坂があり、一つ一つが歴史のある坂となってるのかもしれません。文京区は、小道や坂のような何気ない場所から地域の歴史や人々の絆が感じらることが多い気がしますね。文京つーしんでは皆様の役にたつ情報を配信しておりますので引き続きよろしくお願いします。

 

 

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