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文京区の西片地区と関係が深い福山藩とは?

投稿日:2024/11/30by 
文京区の西片地区と関係が深い福山藩とは?

江戸時代、文京区西片地区には福山藩の江戸屋敷がありました。そのため、西片地区には現在でも歴史と関わりのある名前がつけられている場所があります。では、そもそも福山藩とはどのような藩だったのでしょうか。今回は文京区の西片地区と関係の深い福山藩についてまとめてみました。

 

「福山藩」とは

「福山藩」は、現在の広島県福山市周辺を領した譜代藩であり、元和5年(1619年)から明治4年(1871年)まで存続しました。特に、福山藩の大名となった家系は徳川家と繋がりの深い譜代藩であり、西国の外様を監視する「西国の鎮衛」として政治的・拠点となりました。

文京区と福山市の関係

文京区と福山市は平成30年(2018年)に住民の交流や災害時の応援などを進める「相互協力に関する協定」を結んでいます。特に文京区西片地区は、町内会「西片町会」を中心として福山藩ゆかりの歴史を伝える活動を続けています。

文京区教育委員会による紹介

福山藩と西片地区の関係は、かつて福山坂と呼ばれた新坂の案内板に以下のように記されています。

江戸時代に福山藩の阿部家の屋敷があった地域が、明治期に「駒込西片町」となった。東京大学の本郷キャンパスの西側にあり、学者や文人が暮らす「学者町」とも呼ばれた。夏目漱石や魯迅、樋口一葉らの旧居跡を紹介する案内板も立つ。現在は地名は「西片」となり、西片町会の地域に約2千世帯(約4千人)が暮らす。

 

福山の名前の由来とは

福山藩の名前は、藩主の名前ではありません。この福山という名前は、広島県福山市のホームページによると以下のように紹介されています。

福山城がある城山は、もとは蝙蝠山こうもりやまと称されており、「蝠」は福に通じることから「福山」となりました。

 

福山藩以前とその始まり

江戸時代初期のこの地は、福島正則ふくしままさのりによって、安芸国あきのくに(現在の広島県西半部)と共に49万8,000石で領有されていました。

しかし正則が、広島城を無断で修築したことの咎により、元和5年(1619年)に改易されると、領地は分割され、安芸、及び備後びんご(現在の広島県東部)北部・西部は42万石で浅野長晟あさのながあきらが、備後南部には徳川家康の従兄弟で「大坂の陣」で武勲を立てた水野勝成みずのかつなりが、大和国郡山藩やまとのくに・こおりやまはん(現在の奈良県大和郡山市)6万石から4万石の加増を受けて、10万石で入封することになりました。

 

福山藩成立後の譜代大名

その後福山藩には、水野家、松平家、阿部家といった徳川家と繋がりのある譜代大名が配置されています。

福山藩の藩主となった人物には、水野家初代藩主でもある水野勝成、阿部家初代藩主である阿部正邦まさくに、松平家の初代藩主である松平忠雅ただまさなどがいます。

福山藩の譜代大名となったそれぞれの家系

では、福山藩の譜代大名となったそれぞれの家系を見ていきましょう。

水野家

水野家は、元和5年(1619年)から元禄11年まで5代にわたり約80年の藩政を行いました。

初代藩主である水野勝成は、水野忠重の嫡子です。忠重の姉は於大の方であり、家康の母であるため徳川家康の従兄弟となります。

十五年に及ぶ浮浪生活の後に、三河国刈谷・大和国郡山の領主を経て、元和5年(1619年)に福山藩10万石の藩祖となりました。

水野家の統治は5代藩主水野勝岑かつみねの病死により後継者の不在となったため改易となりました。その後数年は、幕府の代官が幕府領としてこの地を収めることとなります。

水野勝成

水野勝成

 

松平家

水野家の改易後、約三年間は幕府領となった福山藩でしたが、その後松平家の松平忠雅が統治をしました。松平家の治政は元禄13年(1700年)から宝永7年(1710年)とわずか10年たらず1代の藩政でした。

松平家は、松平忠明を家祖とする名門です。忠明は、三河国新城で父である奥平信昌と母の徳川家康の娘亀姫の四男、すなわち家康の外孫として生まれました。そのため、元は奥平の姓で三河の豪族でしたが、忠明が家康の養子となることで松平の姓を授かっています。

忠雅の福山藩での藩政が短かった理由としては、松平忠雅が幕府の命令で伊勢国桑名への転封が命じられたことが挙げられます。

松平忠雅

松平忠雅

 

阿部家

松平家に代わり福山藩に新たに入府したのが阿部家5代目の阿部正邦です。阿部家はその後、宝永7年(1710年)から廃藩置県の実施された明治4年(1871年)まで10代にわたり約160年の藩政を行いました。

阿部家の家祖である阿部正勝は、幼少期から徳川家康に仕え、家康が幼い頃に小田氏や今川氏へ人質として送られていた際の従者の一人でした。その他にも、家康とともに三河一向一揆を抑えるなどにより徳川家臣団における地位を築いた人物でした。

阿部家はその後、代々の当主のうち6名が老中職に就いています。なかでも第7代当主であった阿部正弘は安政の改革を行いペリーとの間で日米和親条約(1854)を結んだことでも知られています。

阿部正弘

阿部正弘

 

福山藩、廃藩置県以降

特に阿部家は、明治4年(1871年)の廃藩置県によって福山藩がなくなった後も西片町のまちづくりに大きく貢献しました。

明治5年(1872年)、「西片町」の町名が誕生します。西片の名前の由来は、阿部家の差配人・篠田政兵衛が、中山道を挟んで向かい側に当たる駒込片町の人たちと話し合いをして、道の東側にあたる旧来の片町を東片町、西側の旧武家地を西片町としたそうです。

阿部家は町内を整備すると同時に教育にも力を注ぎました。丸山屋敷内には江戸時代から藩士子弟の教育のために藩校誠之館が設けられていましたが、明治8年、それを母体として阿部家が土地・資金などを支援し、現在の誠之小学校の前身となる第一大学区第4中学区第十三番公立小学誠之学校を開校しました。同20年には後に第一幼稚園となる幼稚室も小学校内に開設され、同30年に現在地に移転しています。

現在も江戸の誠之館に起源のある誠之小学校は文京区の中でも区立小学校でありながら人気の学校として知られています。

 

文京区西片地区にある福山藩との関係の深い場所

最後に、文京区西片地区にある福山藩と関係の深い場所を見ていきましょう。

西片公園

西片公園は文京区西片2丁目にある公園です。公園の南側には、明治24年(1891年)に阿部伊勢守屋敷の本邸が新築された際にできた広場にあった「大椎樹(おおしいのき)」の歴史を残す石のモニュメントがあります。

誠之小学校

誠之小学校は明治8年(1875年)に開校し、現在は140年以上の歴史ある公立小学校です。誠之小学校は、阿部家の丸山屋敷内にあった藩校「誠之館」を母体としており、近隣の第一幼稚園や福山から東京に出てきて勉強する学生たちの寮である誠之舎とともに日本で活躍する多くの人々を輩出しています。

誠之小学校正門

 

西片地区と福山藩まとめ

いかがだったでしょうか。文京区には江戸時代に徳川家と関わりの深い大名の屋敷が多く見られますが、福山藩もその一つのようですね。西片地区の歴史は全国から集まった優秀な家系が築きあげてきたものであり、現在でも人気のエリアの理由が窺えます。西片には弊社西片土地株式会社もありますので、不動産についてお困りのかたはお気軽にご利用ください。

 

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◼︎ 詳細情報

参考文献

福山藩 (シリーズ藩物語)
著者:八幡浩二
出版社:現代書館

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