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文京区の著名な文人・作家ってどんな人がいるの?

投稿日:2020/07/18by 
文京区文人たちを調べる

文京区は江戸時代から数多くの文人たちが暮らしてきた文京の地です。江戸時代には、松尾芭蕉がこの地を訪れ俳諧師になるきっかけとなった土地でもあります。明治時代には坪内逍遙(つぼうちしょうよう)が近代小説の基礎となった理論書「小説神髄」を発表し、近代文学発祥の地として知られるようになりました。その他にも、夏目漱石をはじめ多くの著名な作家たちが集まり、文学史上に名を連ねる文豪たちを輩出しました。そんな文京区の文人や作家について今回取り上げてみました。

 

江戸時代の文人。松尾芭蕉と大田南畝(おおたなんぽ)

文京区といえば、小石川後楽園と関わりが深いのだろうと思われるかたも多いのですが、実は小石川後楽園は昭和13年になるまで一般公開されていないんですね。そのため、皆さんのよく知る松尾芭蕉といった俳諧師でも「小石川後楽園」よりは「江戸川橋」や「関口」にゆかりがあったようです。

大田南畝(おおたなんぽ)も武家屋敷があった神楽坂付近の下級武士の家柄なのでどちらかというと庶民感覚に近い武士という感じです。

松尾芭蕉(まつお ばしょう)1644年〜1694年

江戸時代前期の俳諧師(はいかいし)

有名な句 「古池や 蛙飛びこむ 水の音」など

松尾芭蕉は三重県出身ですが、江戸のはじめ(1675年ごろ)に文京区関口に住み水戸藩邸の防火用水のため江戸川と神田上水を分水する工事に携わった事が知られています。関口には3年ほど滞在し、この時期に江戸や京都の俳壇と交流を持ち職業的な俳諧師になったと考えられています。この滞在の後、有名な「奥の細道」の執筆へと繋がる旅へ出かけて行きました。

現在は、芭蕉が関わった江戸川は1970年に神田川と統一され神田上水の分水地点はなくなっていますが、関口江戸川橋付近には江戸川公園などの名残りがあります。また、関口には関口芭蕉庵として松尾芭蕉の住んでいた芭蕉堂や瓢箪池が整備されています。

 

大田南畝(おおたなんぽ)1749年〜1823年

大田南畝は、江戸時代中・後期、下級武士でありながら、狂歌師や戯作者、また学者としても人気を博した文化人です。昼は役人として幕府に勤め、夜は文化人として活躍しました。

有名な歌:

「世の中は酒と女が敵(かたき)なり どうか敵にめぐりあいたい」

「カウヒイ焦げくさくて飲めん」(日本人で初めて珈琲の感想を随筆にした人です)

江戸時代という士農工商の身分の違いがはっきりと定められていた時代の中で、文芸や学問の世界は武士と町人がお互いの身分を気にすることなく同好の仲間として交流をできた場所でした。大田南畝(おおたなんぽ)の持つ武士と文化人の二つの側面が、武士や町人たちの身分を越えた交流を生みさまざまな絵画や文芸が花開いたとされています。

文京区には大田南畝のお墓が小石川の本念寺(文京区白山)にあります。辞世の歌として歌われた「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」という歌にも大田南畝の人柄が感じられますね。

 

明治時代の文人。坪内逍遙(つぼうちしょうよう)、森鷗外、夏目漱石、樋口一葉、石川啄木

明治維新直後には、幕府直属であった昌平坂学問所、開成所、医学所を統合して大学校が建設されました。その後、1877年に文部省管轄の東京大学校が建設され、多くの文化人が文京区に集まるようになります。

新たな文化人の輩出や学問の発展とともに海外の文学の翻訳も盛んに行われるようになりました。そのような流れの中で徐々に文学にも海外文学の影響が現れてきます。近代文学の祖と呼ばれる坪内逍遙(つぼうち しょうよう)は近代小説の基礎をまとめた『小説神髄』を描き、文学に「人情」や「世俗」を取り入れる新しい流れをつくりました。

 

坪内逍遙(つぼうち しょうよう)1859年 – 1935年

日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。小説家としては主に明治時代に活躍。

東京大学文学部政治科を1883年(明治16年)に卒業。

 

代表作に『小説神髄』『当世書生気質』およびシェイクスピア全集の翻訳があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えました。

特に文芸評論の『小説神髄』は、日本の近代文学の最初の理論書として役割を果たし、「人の人情」と「世態風俗」のありのままの模写を主眼におく「写実主義」の立役者とよばれています。

それまでの「聖人君子」のような登場人物のありかたから、「等身大の人間」が描かれている現代の小説への基礎を作りました。

 

森鷗外(もりおうがい)1862年 – 1922年

森鷗外は軍医としてのドイツ留学などの自身の経験を活かし、外国文学の翻訳を手始めに作家としても大成しました。鷗外の処女作である「舞姫」は当時情報の乏しい欧州ドイツを舞台とした恋愛小説であったため日本の読者を魅了しました。

また森鷗外は、医者や作家としてだけではなく以下のような経歴の持ち主でもあります。

小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士

鷗外は、30数年を文京区で過ごし「舞姫」「青年」「雁(がん)」などの名作を執筆しました。晩年まで過ごした住居は「観潮楼」と名付けられ、旧居跡には文京区立本郷図書館鷗外記念室が置かれました。こちらが休室となった後、2012年には文京区立森鷗外記念館となっています。

 

夏目漱石(なつめそうせき)1867 – 1916年

1893年(明治26年)帝国大学(現在の東京大学)卒業。

大学時代同級生であった正岡子規(まさおかしき)と出会い俳句を学び、その後も多くの影響を受けています。

東京大学の講師の傍、当初イギリス留学の経験などから初の小説「吾輩は猫である」を執筆をはじめました。その後も多くの小説を書き文化人として広く知られるようになりました。

日本を代表する文豪である夏目漱石の著書のなかでも「坊っちゃん」「草枕」など数々の名作々が文京区で執筆されています。

 

樋口一葉(ひぐちいちよう)1867年 – 1916年

文京区に生きた近代の女流作家として有名です。

1896年(明治29年)には『文芸倶楽部』に『たけくらべ』が一括掲載されると、同人誌『めさまし草』で森鷗外や露伴によって高く評価されました。

近代を代表する女流職業作家である一葉は、24年の短い生涯のうち10年あまりを文京区で過ごし、「たけくらべ」「にごりえ」などの名作を残しました。

現在は、本郷に樋口一葉旧居跡が残っており当時の雰囲気を感じることができます。

 

石川啄木(いしかわたくぼく)1886年 – 1912年

「文の京」を愛した薄幸の天才歌人

石川啄木は岩手県出身の薄幸の天才歌人として名を轟かせました。啄木は亡くなるまでの約4年を文京区で暮らしています。「一握の砂」「悲しき玩具」などの歌集を刊行しました。

 

まとめ

いかがだったでしょうか。本日は、文京区の歴史上の文人ということでまとめてみました。文豪と呼ばれる人には病気や短命のかたも多いですが、この文京区で執筆をしていたということには深い感慨を覚えますね。文京区は生まれや育ちは異なっていても、同じ地域で文学に関わり有名になっていった人々のロマン溢れる土地です。興味のある方は、作品に触れてみたりゆかりの地を訪れて見るのも面白そうですね。文京つーしんでは皆様に役に立つ情報を取り上げていきますのでよろしくお願いします。

 

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