文京区の小石川後楽園は、水戸黄門で有名な庭園ですね。しかし文教の地区として有名な東京都文京区でなぜ徳川家の御三家である「水戸藩(現在の茨城県北部)」の庭園がこれほど有名になっているのでしょうか。今回はこの小石川後楽園を中心に江戸時代から続く文京区の歴史についてまとめてみました。
「徳川御三家」ってどんな家系?
では、小石川後楽園を築いたとされる徳川家「水戸藩」とはどのような家系なのでしょうか。
「徳川御三家」は、徳川家康の子を祖とする家系で、尾張藩(尾張徳川家)、紀州藩(紀州徳川家)、水戸藩(水戸徳川家)に分けることができます。
徳川御三家「尾張藩」(尾張徳川家)
尾張藩は、徳川家康の九男「徳川義直(よしなお)」を祖とする家系で石高62万石(資産価値620億円程度)の家系です。
徳川御三家「紀州藩」(紀州徳川家)
紀州藩は、徳川家康の十男「徳川頼宣(よりのぶ)」を祖とする家系で石高56万石(資産価値520億円程度)の家系です。
徳川御三家「水戸藩」(水戸徳川家)
水戸藩は、徳川家康の十一男「徳川頼房(よりふさ)」を祖とする家系で石高35万石(資産価値350億円程度)の家系です。文京区のなかでも小石川後楽園は水戸藩とゆかりのある場所で水戸黄門でも知名度がありますね。
文京区小石川後楽園とは?
小石川後楽園は、江戸時代1692年にこの水戸藩の始祖である徳川頼房(よりふさ)が築いた庭園で、二代目となる徳川光圀(みつくに)が「後楽園」として命名して完成させました。
水戸黄門の「水戸光圀公」というのはこの徳川光圀をモデルにした人物なのは有名です。
水戸学の創始者「徳川光圀(水戸光圀)」
第二代水戸藩主である徳川光圀は、日本の歴史書である「大日本史」の作る際に「水戸学」という政治思想を作ることになりました。この徳川光圀が作った水戸学は後に「前期水戸学」呼ばれます。一方で、後の第九代水戸藩主となった徳川斉昭(なりあき)が教育所の思想として作った水戸学は「後期水戸学」と呼ばれるようになります。
水戸学とはどのようなもの?
水戸学は、当初日本の歴史感に基づく思想とされていました。しかし、江戸の中期である寛政(1789年〜1800年)以来、国内の揉め事や外国との危機を鋭敏に感じ取った水戸藩の学者は水戸学を尊王攘夷の思想として儒教各派考え方や国学、洋学の成果を取り入れたものとしました。
尊王攘夷って何?
では、水戸学の中心となった尊王攘夷とはどのようなものなのでしょうか。
江戸時代は、国政を担っていた最高責任者は徳川家率いる江戸幕府の「征夷大将軍」と言われています。しかし、一方で京都には天皇がおり日本の国自体は、江戸以前からの天皇による支配も続いていました。
そのため尊王攘夷とは「尊王」すなわち京都にいる「天皇」を敬い、「攘夷」つまり「海外の敵を撃退しよう」という思想です。
江戸時代中期から後期にかけては、欧米列強の優れた技術力と軍事力の前に次々と要求を飲まされていく江戸幕府に多くの人々が失望し、幕府への不信感からこの水戸学や尊王攘夷の考えかたが広まったとされています。
天皇を中心とする考え方は明治維新へ
水戸学の「尊王攘夷」の考え方は、江戸時代後期の時代背景と複雑に絡み合い江戸幕府の倒幕と、明治維新の新しい思想の中で急激に支持される思想となっていきます。
この辺りは、水戸藩出身でありながら江戸時代最後の第十五代征夷大将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)の政権を天皇に返す大政奉還に見ることができます。
その後、1874年(明治7年)以降に小石川後楽園は、明治天皇の行幸や皇族の行啓(ぎょうけい)をうけた外国人の接待に利用されることになります。そのため、日本庭園として世界的にも知られるようになりました。
この頃になると、天皇制の象徴として水戸学や小石川後楽園が使われるようになったと捉えることもできそうですね。
明治時代には、天皇が内閣総理大臣に国の行政権を任命する形で立憲君主としての裏方のような立場につきます。そのため、表向きでは明治維新といえば「伊藤博文」のような内閣総理大臣や官僚のイメージに近くなりますが、このあたりの天皇と内閣の距離感は現代でもその名残を感じることができますね。
明治天皇と教育勅語
また、明治時代には明治天皇が近代日本の教育の基本方針としていたものに「教育勅語」があります。
この教育勅語は水戸学の尊王の流れを含んでいるため、明治の学校教育は忠君愛国を支柱としたものとなりました。
この教育勅語について現代語訳をされていた方がいたので、上げておきます。
現代語訳http://chusan.info/より
教育勅語が天皇や祖先を敬うといった道徳中心の思想ということが分かりますね。
しかし、第二次世界戦後GHQは、この「教育勅語」は天皇制が軍人勅諭と同列におかれることで軍事教育や軍国主義を彷彿とさせる傾向があること点を問題視としました。そのため、日本国憲法にあわせた形で「教育勅語」は現在でも用いられている「教育基本法」へと置き換えられていくこととなります。
それぞれの時代と共にこの天皇制のありかたは変わっていきますが、やはり日本人としてその辺りの歴史は知っておきたいです。
水戸学と天皇制
このようにみていくと文京区でみられる後楽園というものが少し見方が変わってきますね。おそらく徳川光圀(水戸黄門)の時代には、日本の歴史書を作るといった今で言う「水戸黄門や水戸光圀公」のイメージが強くあったようなのですが、歴史的背景の中で水戸藩の水戸学に含まれる日本の天皇主権というものの影響力が強くなっていった感じがします。
まとめ
いかがだったでしょうか。今後日本紙幣として認知度が出てくるあろう「渋沢栄一」といった当時の財界人の歴史をみるときにも、この「水戸学」や「尊王攘夷」といった考え方が出てきますのでその時は、「文京つーしんで、そう言えばこんなこと言ってたな、、意外と文京区も関わりがあるのだな」などと思い出していただけたら幸いです。文京つーしんでは皆様に役に立つ情報をお送りしておりますのでよろしくお願いします。
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