文京区に「文京区指定天然記念物」があるのをご存知でしたか? 文京区の指定天然記念物は一つだけ。それが小石川にある「善光寺坂のムクノキ」です。いったいどんな木なのか、どんないわれがあるのか、周囲を散策しながら見てみましょう。
白山通りを西方の交差点から千石のほうに進むと、左手に「柳町仲通り」のアーチが見えてきます。アーチをくぐって小さな商店街を通り過ぎ、千川通りを越えて少し進むと、やがて伝通院に続く善光寺坂という坂のふもとにたどりつきます。
東京の坂に詳しいタモリさんは著書『TOKYO坂道美学入門』で、この善光寺坂を取り上げています。「寺の山門と緑が美しい坂」「坂下から見上げると、昔ながらの豆腐屋や定食屋とカーブがあいまって、非常に情緒深い眺めですよ」と書いているぐらいですから、実際に何度も足を運んで坂を楽しんだのでしょう。なお、豆腐屋さんは今も健在ですが、残念ながら定食屋さんはなくなってしまいました。
タモリさんは「よい坂」の条件について、このように語っています。
その1 勾配が急である
その2 湾曲している
その3 まわりに江戸の風情がある
その4 名前にいわれがある
善光寺坂は隣にある六角坂ほどではありませんが、勾配はなかなか急です。条件その1はクリア。地図で見ると、ゆるやかに2度、3度カーブしているのがわかります。条件その2もクリア。坂の名前の由来となった善光寺は1602年に創建された寺で、もともとは坂の上にある徳川将軍家の菩提寺、伝通院の塔頭(たっちゅう。本寺の境内にある小寺)でした。当然、江戸の風情はたっぷりあります。条件その3と条件その4もクリア。つまり、善光寺坂はタモリさんが挙げている「よい坂」の条件をすべて満たした坂ということになります。道理でお気に入りのはずですね。
樹齢400年のムクノキ
朱塗りの門の善光寺を右手に見ながら通り過ぎると、澤蔵司(たくぞうす)稲荷が現れます。ここはムクノキと非常にかかわりが深い場所なので、後でまた訪れましょう。さらに坂を登っていくと、道に張り出すような形で伸びている大きな木が目に入ります。これが「善光寺坂のムクノキ」です。
もともとこの場所は伝通院の境内で、徳川家康から伝通院の住職に指名された廓山(かくざん)上人によって植えられたという記録があるそうです。それが本当なら樹齢400年以上ということになります。1945年5月25日の東京大空襲で木の上部が焼ける前は、今よりずっと高い22メートルほどの樹木だったとのこと。江戸時代に刊行された『江戸名所図会』にも、澤蔵司稲荷の鳥瞰図の中にムクノキらしき大木と茶屋が描かれていました(国会図書館デジタルコレクションで見ることができます)。
そば好きの神様、澤蔵司
澤蔵司稲荷とこのムクノキには、よく知られている伝説があります。1618年、伝通院に澤蔵司と名乗る修行僧がやってきたのですが、たった3年の修行で浄土宗の奥義を極めてしまいました。ある日の夜、伝通院の廓山上人と学寮長だった極山和尚の夢枕に立った澤蔵司は、「そもそも余は千代田城の内の稲荷大明神である」と正体を明かし、「今より元の神にかえるが、永く当山(伝通院)を守護して、恩に報いよう」と告げて空の向こうに去っていきました。そこで廓山上人は伝通院の境内に澤蔵司稲荷を祭ったところ、参詣客がたくさん押し寄せて繁栄したのだそうです。ちゃんと恩に報いたわけですね。
澤蔵司稲荷の脇には朱塗りの鳥居が立ち並ぶ窪地があって、かつて狐が棲んでいたと言われていた「霊窟(おあな)」があります。たしかに一歩足を踏み入れると、とても都心にいるとは思えない感覚になります。まさに霊場といった雰囲気です。まわりを取り囲んでいる樹木もムクノキと同じく樹齢数百年と言われており、澤蔵司稲荷のホームページによると東京大空襲の際、伝通院方面から類焼してきた火災がこの森で泊まり、隣接する善光寺や住宅には燃え移らなかったそうです。
面白いのが、この澤蔵司はそばが大好きで、修行中も伝通院の門前にあったそば屋に通っており、澤蔵司が来たときは売り上げの中に必ず木の葉が混じっていたそうです。澤蔵司はそば好きの神様だったのですね。主人は澤蔵司が実は稲荷大明神だったことに大変驚き、それ以降、毎朝その日の初茹でのお蕎麦を朱塗りの箱に収めて奉納することを欠かしませんでした。
このそば屋さんは「稲荷蕎麦 萬盛」として現在も営業中だというのですから驚きです。まさに老舗中の老舗ですね。そして澤蔵司が神様として去ってから約400年経った今でも、お蕎麦の奉納は欠かさず続いているというのも本当に驚かされます。私たちの生活圏にあるお店が江戸時代と直結しているあたり、「これぞ文京区!」といった感じがしますね。ご近所の茗荷谷に住んでいるタレントの堀ちえみさんもこの蕎麦屋さんの常連だそうです。
善光寺坂のムクノキには澤蔵司がやどっていると言われており、澤蔵司稲荷の神木とされています。だから、道がムクノキをよけて通っているわけです。そう言われると、なんだか神々しく感じるようになるのですから不思議なものです。かつてはムクノキの両側に車道が通っていましたが、今では一方通行になって、家がある側は歩道になりました。
ムクノキと明治の文豪
ムクノキのすぐそばには、明治の文豪・幸田露伴、その娘でエッセイストの幸田文、文の娘の青木玉が暮らした「小石川蝸牛庵」と呼ばれる家がありました。東京大空襲で焼けてしまいましたが、現在、同じ場所に幸田文さんが建て直した家があります。
露伴はかつて向島に住んでいましたが、関東大震災の影響で井戸に汚水が混じるようになり、仕方なく小石川に転居してきました。小石川に転居する際は、樋口一葉の妹、邦子が世話をしたのだそうです。
青木玉さんのエッセイ集『小石川の家』には、離婚した幸田文が娘の玉とともに父のもとに帰ってきた昭和13年からの祖父、母、娘との3人での暮らしぶりが描かれています。「椋の木」という一編には、善光寺坂のムクノキのことがこのように述べられています。
「家の庭の向うに、道路の真中、大きな椋の木があって、道いっぱい枝を拡げていた。二階の祖父の書斎に坐れば、まるで木の枝の上に居るような感じで廊下のガラス戸を開ければ枝先がさわれそうだ」(『小石川の家』所収「椋の木」より)
年老いた露伴は、庭に花がたくさん咲いていた向島の家を手放すことが惜しかったと見えて、小石川にやってきてからは庭をつくる気力もなかったという。そんな露伴の心をなぐさめたのもムクノキだった。
「庭をあきらめた祖父は、どんなにこの木の緑に町中のごちゃごちゃしたうっとうしさを防いでもらったことだろう。太い椋の木の細かい葉が風に揺れてしなやかに動いていた」(同前)
幼かった青木玉さんは、木のウロに出入りする小さくて可愛らしい雀が気になり、朝の忙しい時間でもじっと見続けて、いつも母の文さんに叱られていたそうです。また、夏の暑い日になるとムクノキの木陰は、坂を行き来する人たちの格好の休憩所になっていました。
今でもムクノキの下は、雀のような可愛らしい子どもたちの遊び場になっています。これからも小石川のランドマークとして人々を見守っていてもらいたいものです。
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