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上野公園が境内であった寛永寺ってどんな寺院?文京区の伝通院との関係は?文京区と徳川家⑦

投稿日:2021/05/29by 

文京区には、徳川家の菩提寺として浄土宗の伝通院があります。台東区にも寛永寺という徳川家の菩提寺があり、江戸時代から続くさまざまな歴史や伝通院との関係がある寺院となっています。そこで今回は台東区にある寛永寺についてまとめてみました。

 

寛永寺ってどんな寺院?

東叡山寛永寺は、天台宗関東総本山の寺院となっています。寛永寺は寛永2年(1625年)に、幕府と万民の平安・安泰を祈る祈願寺として天海大僧正(てんかいだいそうじょう)によって創建されました。当初は江戸城の鬼門の方角を守護する寺院としての役割を担っていました。

天海大僧正

天海大僧正

江戸時代の徳川家光公以降には、徳川将軍家の菩提寺となっており徳川歴代将軍の15人のうち6人が寛永寺に埋葬されています。

当時、天海大僧正は、寛永寺を江戸の天台宗の拠点となる大寺院にしたいと考えており、これを知った二代将軍・秀忠は現在の上野公園の地を天海に与えました。寛永寺の敷地は現在の上野公園全域にあたり、第二次世界大戦の空襲でその多くが焼失した現在においても、上野公園内には旧寛永寺と関わりの深い御堂や五重塔を見ることができます。

 

寛永寺と皇族の関係

また、寛永寺は皇族との繋がりもあったことが知られています。当時、皇族の宮家を継ぐ皇子以外は、朝廷の財政負担を減らすという名目により出家する決まりとなっていました。慶應3年(1867年)の大政奉還が行われた年には寛永寺が皇族である北白川宮能久親王(輪王寺宮)を迎え入れました。北白川宮能久親王は義弟、明治天皇の義理の叔父にあたり、その後の天台宗と寛永寺の発展に多く寄与したとされています。

 

寛永寺はどこにあるの?

寛永寺の住所は東京都台東区上野桜木1-14-11となっています。

上野公園の東京国立博物館の裏手に位置しており、近隣には寛永寺管轄の墓地が広がっていますので寛永寺までの道のりは比較的わかりやすいかと思います。

寛永寺への行き方

【電車の場合】

JR「鶯谷駅」徒歩7分

JR「上野駅」徒歩15分

「根津駅」徒歩16分

【バスの場合】

東西めぐりん〔千駄木駅-台東区役所〕寛永寺下車徒歩1分

 

寛永寺と増上寺・伝通院

寛永寺は、創建当初は徳川家の祈祷寺とされていましたが菩提寺ではありませんでした。そのため、寛永寺がのちに菩提寺となった際に、浄土宗の増上寺から天台宗の寛永寺へ徳川家の菩提寺をめぐって反発がありました。結果、徳川家の菩提寺については6代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続くこととなりました。

浄土宗の増上寺は、初代将軍である徳川家康命を授かり菩提寺として二代将軍・秀忠公が埋葬がされています。また、文京区にある浄土宗の伝通院にも家康の母方「於大の方」の墓所や第三代家光の正室「孝子の方」や家光の次男「亀松君」が埋葬されています。

 

徳川家の菩提寺は、結局どの宗派?

ここで疑問になってくるのが、徳川家の菩提寺はどの宗派かということです。

増上寺や伝通院といった寺院は浄土宗、寛永寺は天台宗の大本山となっています。日光東照宮に至っては、江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を主祭神として祀っており宗派はありません。

 

徳川家康の宗教政策

この疑問には、徳川家初代である家康の宗教政策を理解するとわかりやすいかと思います。

徳川家康は浄土宗の観智国師だけでなく、天台宗の天海、臨済宗の金地院といった多くの僧侶と親密な関係をもち、寺院や宗教に関することだけでなく政治的な助言も受けていました。これは、先代の織田信長や豊臣秀吉とは対照的です。

その理由としては、先代の織田信長や豊臣秀吉が寺院や宗教団体との対立により一向一揆などの対立が絶えなかったこと、キリスト教弾圧のためといったことがあります。

徳川家康の意向としては、国を納める一つの政策として宗教政策のあり方を考えていたようです。

徳川家光と寛永寺

本来、祈祷寺であった寛永寺ですが、天海に陶酔していた家光が家康と同じ日光での葬儀をこの寛永寺に頼んだため、その後は寛永寺で、四代将軍・家綱や五代将軍・綱吉が続けて葬儀を行うこととなりました。そのため、寛永寺も徳川家の菩提寺とされるようになります。

 

最後の将軍である徳川慶喜の菩提寺と谷中霊園について

徳川家最後の将軍となった慶喜は大政奉還後、華族となり将軍としての最期を迎えることができなかったとされています。そのため徳川慶喜は、増上寺と寛永寺の菩提寺にも入ることなく寛永寺の近くにある谷中霊園内の墓地に眠っています。谷中霊園には、徳川慶喜が将軍だった時期に幕臣まで上り詰めた渋沢栄一の墓もありお互いの強い結びつきをを感じますね。

左:徳川慶喜墓 右:渋沢栄一墓

左:徳川慶喜墓 右:渋沢栄一墓

 

東叡山寛永寺の施設

最後に東叡山寛永寺の施設についてみてみましょう。現在は、上野公園内にある建物もありますのでお馴染みの方も多いと思います。

根元本堂

寛永寺根元本堂

京都と滋賀にまたがる西の比叡山に対し、東国の天台宗の拠点ということで東叡山と名付けられたのが上野の寛永寺です。寛永2年(1625年)、慈眼大師・天海大僧正の創建で、その中心となる堂宇が元禄11年(1698年)建立の根本中堂となっています。建立当初は現在の上野公園の大噴水の場所に建っていましたが、幕末の上野戦争で焼失したために現在地に再建されています。

 

徳川歴代将軍御霊廟

寛永寺徳川歴代将軍御霊廟

勅額門

寛永寺に祀られている徳川家の将軍は、四代家綱公、五代綱吉公、八代吉宗公、十代家治公、十一代家斉公、十三代家定公となっています。 徳川将軍を祀る御霊廟は、第二次世界大戦の空襲で焼失してしまったため、現在は被害を免れた勅額問(ちょくがくもん)・水盤舎が重要文化財となっています。

 

開山堂(両大師)

寛永寺開山堂(両大師)

開山堂は、天海大僧正をお祀りしている御堂になります。また、天海大僧正が尊崇していた良源大僧正もお祀りしていることから「両大師」と呼ばれています。

 

清水観音堂

寛永寺清水観音堂

清水観音堂は、現在上野公園内にある御堂になります。京都の清水寺を見立てた舞台造りの御堂で、国の重要文化財となっています。

 

不忍池弁天堂

寛永寺不忍池弁天堂

不忍池弁天堂は、上野公園の不忍通り沿いにある八角の丹塗りの御堂になります。弁天堂は比叡山の琵琶湖竹生島になぞられて不忍の池に中之島を築き建設されました。本尊には大弁財天が祀られています。

 

寛永寺まとめ

いかがだったでしょうか。時代の流れは数奇なもので歴史のなかでは色々な繋がりがあるのがわかりますね。文京区周辺には江戸時代から明治にかけての歴史を知ることのできる建築物が多くありとても興味深いです。文京つーしんでは、このほかにも皆様の役に立つ情報を配信しておりますのでよろしくお願いします。

 

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