西方土地株式会社PR
ログイン ログアウト
  • 名所

椿山荘を購入し総理大臣にもなった山縣有朋ってどんな人?文京区との関係

投稿日:2021/06/26by 
椿山荘を購入し総理大臣にもなった山縣有朋ってどんな人?文京区との関係

文京区関口は、文京区立江戸川公園や関口公園をはじめ椿山荘や東京カテドラル聖マリア大聖堂など自然や芸術に触れ合える機会が多い場所となっています。今回は、関口にある椿山荘についてその歴史と共に見ていきたいと思います。

 

そもそも椿山荘ってどんな施設?

椿山荘は、現在では東京都文京区関口にある「ホテル椿山荘東京」を指します。ホテル椿山荘東京は、ホテルと四季折々の庭園、結婚式場などが一体となっており、宿泊やレストランでの食事、結婚式や結納を行うことのできる施設となっています。

ホテル椿山荘東京宿泊

椿山荘の歴史は古く、明治11年に当時の総理大臣であった山縣有朋によって作られました。その後、大正時代に関西財閥の藤田平太郎に引き継がれ、戦後は藤田観光創業者の小川栄一によって宿泊施設として運営されることとなりました。

 

椿山荘の住所やアクセス

椿山荘の住所は、東京都文京区関口2-10-8となっています。

アクセス

【電車】

東京メトロ有楽町線「江戸川橋駅」徒歩約10分

【バス】

都営バス「ホテル椿山荘東京前」徒歩すぐ

B-ぐる[目白台運動公園方面]「ホテル椿山荘東京前」徒歩すぐ

JR池袋駅よりシャトルバス利用約20分

バスを利用する場合は「ホテル椿山荘東京」までのバスがでているのでそちらを利用すると迷わずに行くことができます。

 

椿山荘の特徴や芸術との関わり

現在の椿山荘がある関口は、南北朝時代から椿(つばき)の自生する場所として有名な土地でした。さまざまな歴史書にも出てきており、江戸時代には松尾芭蕉との繋がりでも知られています。江戸時代には、松尾芭蕉もこの地で神田上水の改修に携わっており現在も残る芭蕉庵(関口龍隠庵)に住んでいたと伝えられています。

また、浮世絵師である安藤広重は「名所江戸百景」のなかで「せき口上水はせを庵やま」を描いており、中央に芭蕉庵、遠方には早稲田田園が描かれた一枚になっています。

せき口上水はせを庵やま

せき口上水はせを庵やま

 

山縣有朋と椿山荘

山縣有朋は、長門国(現在の山口県)に生まれ、長州藩士や陸軍軍人を経て第3代・第9代総理大臣となった人物です。

山縣有朋

山縣有朋

明治時代になると、あししげくこの地に通っていた山縣有朋は明治11年に私財を投じこの椿山荘の土地を購入、本邸と広大な庭園を作りあげ「椿山荘」と命名しました。椿山荘の滝の流れを中心とした水景の造園感覚は、山縣の郷里である山口県萩の地形と驚く程共通しているために「萩の再現」とも言われています。

当時の椿山荘では、明治天皇をはじめとする当時の政財界の重鎮を椿山荘に招き、重要な会議をしていたとされています。

 

山縣有朋と桂太郎。文京区の二大著名人の共通点。

山縣有朋は、初代総理大臣であった伊藤博文と並ぶ長州藩の実力者でもありました。

特に山縣閥は、軍部拡大のため治安警察法の制定、軍部大臣現役武官制の導入を進めたり、要職と呼ばれるポジションに長州の出身者や自分の見込んだものを据えて出世させたことで「山縣閥」とよばれるほどの大勢力を築いていきました。その権威は天皇の足元にも及ぶ程とよばれるほどで、藩閥政治の代表とも呼べる人物であったようです。

文京区でも、山縣有朋の影響力が強かった人物として桂太郎がいます。

桂太郎

桂太郎

桂太郎は、当時総理大臣であった山縣有朋と同じ山口県萩出身ということもあり、軍功よりも軍政での功績を認められた人物と言われています。桂太郎は山縣有朋の引き立てもあり、日露戦争後は台湾総督、陸軍大臣を経て首相に就任しています。

また、桂太郎は、文京区小日向にある拓殖大学の創立者であり、第11・13・15代の総理大臣も務めました。

 

明治以降の椿山荘について

1918年(大正7年)山縣有朋は、名園をありのままに残したいとして「一木一石も旧観を失わないこと」を条件に藤田平太郎に椿山荘を譲りました。

 

椿山荘と藤田平太郎

藤田平太郎

藤田平太郎

藤田平太郎は、大正時代に関西財閥で主導的地位を占めていた藤田組の二代目当主です。椿山荘を譲り受けた後には、三重塔をはじめ文化財を椿山荘の随所に配置してその風情を一段と高めるに至りました。

 

第二次世界大戦後の椿山荘と小川栄一

椿山荘は、第二次世界大戦の火災を受け邸宅と樹木の大半が焼かれしまいました。

戦後の荒廃の中、いち早く椿山荘の再興に立ち上がったのが藤田組をルーツに持つ現在の藤田観光創業者の小川栄一です。

小川栄一

小川栄一

小川栄一は、昭和23年から椿山荘の復旧に着手し「東京に緑のオアシスを」の思想のもと一万余りの樹木を移植し、昭和27年(1952年)に名園を蘇えらせました。加えて観光業を営んでいた小川は、華族、財閥が独占していた庭園や邸宅を開放することが観光事業であり社会事業であるとして、昭和28年(1953年)に椿山荘を一般に開放し、宿泊施設としての営業を開始します。

その後椿山荘は、2013年(平成25年)には「ホテル椿山荘東京」にリブランドし総合宴会施設である椿山荘もホテルと一体運営化し、現在に至っています。

 

山縣有朋と椿山荘まとめ

いかがだったでしょうか。文京区の椿山荘は山縣有朋という当時の長州藩の人物にルーツをもち、山口県の庭園や数々の文化財を現在に残しています。このような、歴史ある建造物は今後も末長く残していきたいですね。文京つーしんではこのほかにも皆様の役に立つ情報を配信しておりますのでよろしくお願いします。

 

  • twitterでシェア
  • Facebookでシェア
  • LINEでシェア

◼︎ 詳細情報

ホテル椿山荘東京の詳細について

コメントを残す

TOP

Copyright 文京つーしん,All Rights Reserved