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護国寺から見る明治初期三人の総理大臣。文京区に所縁のある著名人

投稿日:2021/07/10by 
護国寺からみる明治初期三人の総理大臣

文京区にある護国寺には経済界の重鎮をはじめ、官僚から建築家まで数々な著名人が埋葬されています。一方で、徳川家の家紋がかけられていたりと疑問も多い神社と感じるかたも多いのではないでしょうか。そこで今回は、護国寺の歴史と護国寺に墓所のある明治時代の総理大臣についてまとめてみました。

 

護国寺について

護国寺の起源は天和元年(1681年)、江戸幕府五代将軍徳川綱吉の母である桂昌院(けいしょういん)が祈願時として建てたことにあります。重要文化財となっている本堂は元禄10年に建てられ、現在でも当時のままの姿を残しています。

桂昌院

桂昌院

文京区の小石川にある伝通院や春日局(かすがのつぼね)の起源は初代将軍の徳川家康から三代将軍の家光までの歴史と繋がりが深いのに対して、護国寺は少し後の時代の建造物といえそうです。

そのため今でも護国寺の境内では、徳川家の家紋である「葵紋」と桂昌院のご実家である本庄家の「九目結紋」(ここのつめゆいもん)の家紋をみることができます。

徳川家と桂昌院の家紋

 

護国寺の宗派

護国寺の宗派は真言宗となっています。真言宗豊山派(ぶざんは)と呼ばれる宗派の本部が護国寺にあり、全国に約3,000寺、僧侶数は約5,000人、檀信徒数は200万人いるといわれています。豊山派は江戸時代には徳川家と縁も深く、幕府の庇護を受けると共に大本山である護国寺は関東における布教の拠点となっていました。

本尊は桂昌院の念持仏の琥珀如意輪観音となっています。

 

護国寺の住所・アクセス

次に護国寺の住所をみてみましょう。護国寺の文京区内の住所は東京都文京区大塚5丁目40−1となっています。

護国寺のアクセス

【電車の場合】

東京メトロ有楽町線「護国寺駅」すぐ

東京メトロ丸の内線「新大塚駅」徒歩10分

【バスの場合】

都営バス「護国寺前」下車

護国寺は有楽町線を利用すると「護国寺駅」があるので駅をおりてすぐ着くことができますが、あまり有楽町線を利用しない方は丸の内線「新大塚駅」から徒歩でいくこともできます。

 

護国寺にお墓のある明治期の総理大臣

護国寺には、明治期の総理大臣となった3人の偉人たちのお墓があります。

実は、護国寺にお墓のある「三条実美(さんじょうさねとみ)」「山縣有朋(やまがたありとも)」「大熊重信(おおくましげのぶ)」は生前でも浅からず因縁のあった三人となっています。それではそれぞれの人物について見てみましょう。

 

内大臣・三条暫定内閣を務めた「三条実美」

三条実美は、江戸時代には天皇に仕える攘夷派の公家であり、明治時代には天皇に従い責務を負う内大臣や一時的に内閣総理大臣を務めるという珍しい経歴を持った人物です。

護国寺の三条実美

三条実美が内閣総理大臣になるまで

明治22年、日本と欧米諸国との条約改正交渉が暗礁に乗り上げていたことより、当時外務大臣であった大隈重信が国家主義団体である「玄洋社」の団員に爆裂弾を投げつけられて右脚切断の重傷を負うという事件が発生しました。これにより第2次内閣総理大臣であった黒田清隆は、進退窮まり1週間後の10月25日全閣僚の辞表を提出しました。

 

その際に、明治天皇は黒田清隆の辞表のみを受理して、他の閣僚には引き続きその任に当たることを命じるとともに、当時内大臣を務めていた三条実美に内閣総理大臣を兼任させて内閣を存続させたました。これが三条内閣が暫定内閣といわれる所以です。次の山縣内閣が発足するまでの2ヶ月程度の期間は三条実美は内大臣と内閣総理大臣を兼任します。

同年12月24日には第3代内閣として山縣有朋が内閣総理大臣に任命されることなります。

 

第3代・第9代内閣総理大臣となった山縣有朋

このようにして、三条内閣から引き継ぐ形となったのが第3代・第9代内閣総理大臣となる山縣有朋の山縣内閣になります。

護国寺の山縣有朋

山縣有朋は、長州藩の実力者であり伊藤博文と共に近代国家の礎を築いた人物と言われています。第一次山縣内閣の時には、第一回衆議院総選挙を行いました。続く、第二次内閣では桂太郎などの人物を官僚に迎え治安警察法の制定、軍部大臣現役武官制の導入を進めました。

また、山縣有朋は文京区椿山荘の創立者としても有名です。足繁く文京区関口の地に通い詰めた山縣は明治11年に私財を投じこの椿山荘の土地を購入、本邸と広大な庭園を作りあげ「椿山荘」と命名しました。椿山荘の滝の流れを中心とした水景の造園感覚は、山縣の郷里である山口県萩の地形と驚く程共通しているために「萩の再現」とも言われています。

 

第8代内閣総理大臣となった大隈重信

第2次黒田内閣の際に右足を切断するも、第8代内閣総理大臣となり山縣有朋や松方正義らの薩長による藩閥政治に風穴を開けたのが肥前・佐賀藩出身の大隈重信です。

護国寺の大隈重信

大隈重信は、イギリス流の立憲君主制を目指して立憲改進党を結成し、板垣退助と共に首相が政党の首班で閣僚の大半が政党員である政党内閣を実現しました。また、大隈重信は早稲田大学の前身となる東京専門学校を開設しています。

大隈重信は明治政府の財政責任者でもあったため、井上馨・伊藤博文・渋沢栄一らを集め財政を管轄する大蔵省を運営しました。彼らは築地の大隈邸で盛んに議論していたことから、大隈邸は中国で義士たちが集った梁山泊(りょうざんぱく)の故事にならって、築地梁山泊と呼ばれていました。

左:大隈重信 右:渋沢栄一

左:大隈重信 右:渋沢栄一

 

このように護国寺内に墓所のある明治初期の内閣総理大臣を見ていくと、江戸から明治の移り変わりがいかに激動の時代だったかがわかります。特にこの時代は幕末から諸外国との交易で力をつけていた薩摩や長州といった地域の人物が日本の政治の中心におり、江戸時代の代表であった公家や渋沢栄一のような元徳川家の人物が要所要所で活躍をしているという、江戸時代では考えられなかった時代だったようですね。

 

護国寺にあるそれぞれ元総理大臣のお墓

総理大臣となった「三条実美」「山縣有朋」「大熊重信」のお墓は護国寺の中で以下のように配置されています。

護国寺それぞれの墓の場所

山縣有朋の墓所が北側にあり、大隈重信の墓所が護国寺の本堂の東側にあります。三条実美の墓所はその2人の墓所の中間あたりの位置にあります。特に三条実美のお墓には東京都教育委員会の紹介もあり大きく取り上げられていました。

三条実美、山縣有朋、大隈重信墓

左:三条実美墓 中:山縣有朋墓 右:大隈重信墓

山縣有朋と大隈重信の墓所に関しては施錠されており中には入ることができませんが、その大きさから影響力の強さが伺えます。

 

護国寺から見る明治の内閣総理大臣まとめ

いかがだったでしょうか。今回は護国寺の始まりとともに明治時代の総理大臣についてまとめてみました。文京区には歴史に関する建造物が残されており一つ一つ調べてみると意外な繋がりが見えてきて面白いですね。文京つーしんでは皆様に役立つ情報を配信しておりますので引き続きよろしくお願いします。

 

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