文京区と台東区境界には、旧岩崎邸庭園と国立近現代建築資料館が同じ敷地内にあります。旧岩崎邸庭園は台東区不忍池の程近くに位置し東京都都立文化財9庭園にも登録されている由緒ある庭園となっています。そこで今回は、この由緒ある旧岩崎邸庭園や当時の所有者であった岩崎久彌(ひさや)がどのような人物なのかをまとめてみました。
旧岩崎邸庭園はどんな庭園?
旧岩崎邸庭園は明治29年(1896年)に三菱創立者の岩崎彌太郎(やたろう)の長男である岩崎久彌の本邸として作られました。当時は、約15,000坪の敷地の中に20楝もの建物が並んでいました。
現在の旧岩崎邸庭園は当時の3分の1の敷地となり、洋館・和館・撞球室(ビリヤード場)の3楝が残っています。
洋館と和館は渡り廊下で繋がっており建物内を観る場合は渡り廊下を通って移動できます。洋館と撞球室は地下通路で繋がっていますが、通常は地下通路を利用することはできません。
文化財としての庭園
旧岩崎邸庭園は、昭和36年(1961年)に洋館と撞球室(ビリヤード場)が「旧岩崎家住宅」として国の重要文化財に指定されました。その後、昭和44年(1969年)に和館大広間と洋館東脇にある袖塀、平成11年(1999年)に煉瓦塀を含めた敷地全体と実測図が文化財に追加されることとなりました。
旧岩崎邸庭園の住所とアクセス
旧岩崎邸庭園の住所は東京都台東区池之端1丁目3−45となっています。
旧岩崎邸庭園アクセス
旧岩崎邸庭園のアクセスは以下のようになります。
【電車】
東京メトロ千代田線「湯島駅」徒歩3分
東京メトロ銀座線「上野広小路駅」徒歩10分
都営大江戸線「上野御徒町」徒歩10分
JR・山手線・京浜東北線「御徒町駅」徒歩15分
旧岩崎邸庭園は上野公園や不忍池が目印となるので、比較的わかりやすいかと思います。
岩崎久彌と三菱の三代社長
海運業の九十九商会から始まった三菱商会は、三菱財閥と呼ばれるまで大きくなった巨大企業です。創立者の岩崎弥太郎をはじめ、東京都丸の内の開発に取り組んだ二代目の岩崎彌之助など歴代の社長は著名な方ばかりとなっています。
岩崎久彌までの三代社長は、三菱の創業者である岩崎彌太郎、二代目社長は岩崎彌太郎の弟である岩崎彌之助、三代目社長が彌太郎の長男である岩崎久彌となっています。
岩崎久彌とはどんな人物?どんな時代に活躍したのか?
岩崎久彌は、22歳から26歳までアメリカペンシルバニア大学で財政学などを学んでいます。当時のアメリカは、石炭、石油、鉄鋼などを中心に産業界が発展し、カーネギーやロックフェラー、モルガンといった大資本家が次々と誕生した時代でした。
帰国後、岩崎久彌は明治27年(1894年)29歳の若さで三菱合資会社の社長に就任しました。岩崎久彌は、後見役となった彌之助や彌太郎の従兄弟である豊川良平を筆頭に三菱を日生きていくことになります。また、三菱三代社長の久彌の時代は、日清(明治27年・1894年)・日露戦争(明治37年・1904年)といった戦争の時代であり、江戸時代のような日本国内での戦争から国際的な戦争へと広がっていく転換期でもありました。
岩崎久彌の社長としての業績
歴代の三菱社長と同じく久彌も当初から三菱造船事業部門を中心に鉱山業をはじめ機械製造業にも注力し多角化を目指していきます。日露戦争においては、造船業で利益を拡大するなど時代の流れも久彌を後押しすることとなりました。明治30年代後半には、戦後の恐慌で純利益を落とすものの経費削減とリストラを断行し、40年代には既に一部で採用しはじめていた事業ごとの独立採算制の範囲をさらに拡大し、銀行部・営業部事業などの独立を行い事業の多角化を強化しました。
さらに、久彌は優秀な専門家や経営幹部を抜擢し大幅に権限を委譲するなど近代的なマネジメント・システムを取り入れることで三菱を日本最強の企業集団へと導きました。創業者である岩崎弥太郎の事業の全てを自分の監視下に置く考え方と正反対の久彌のやり方は、当時、ワンマン・カンパニー的経営体質と呼ばれていた三菱のマネジメント・システムからの脱皮を実現したといわれています。
旧岩崎邸庭園の建築物について
では旧岩崎邸庭園にあるそれぞれの建築物についてみていきましょう。
洋館
イギリスの建築家であるジョサイア・コンドルによって設計された洋館は、17世紀のイギリスのジャコビアン洋式やイスラム風のモチーフがが取り入れられています。2階には、貴重な金唐革の壁紙が張り詰められた客室もあります。
岩崎久彌が住んでいた当時は、主に年一回の岩崎家の集まりや外国人、賓客を招いてのパーティなどプライベートな迎賓館として使用されたようです。
洋館には、久彌の留学先であった米国のペンシルバニアのカントリーハウスのイメージも取り入れられており、洋館だけを見てもさまざまな文化が合わさっていることがわかりますね。
和館
洋館に併置されている和館は、書院造を貴重とした建物になっています。床の間や襖には、橋本雅邦(はしもとがほう)が下絵を描いたとされる障壁画が残っています。完成当時は、550坪に及び洋館をはるかに凌ぐ規模を誇っていましが、現在は冠婚葬祭などに使われた大広間の1楝だけが残っています。
撞球室(ビリヤード場)
撞球室は、洋館と同じくジョサイア・コンドル設計の木造建築となっています。校倉造り風の壁、刻みの入った柱、軒を深く差し出した大屋根は、アメリカの木造ゴシックの流れを含むデザインとなっています。撞球室の天井のトラス構造は、コンドルが「スイス・コテージ・スタイル」といったようにスイスの山小屋のような特徴が見られます。
撞球室は洋館からは地下通路で繋がっており、行き来ができる設計になっています。
ジョサイア・コンドルについて
ジョサイア・コンドルは、明治10年(1877年)に日本政府の依頼によりイギリスより来日しました。
建築家であったコンドルは工部大学構造家学科(現在の東京大学工学部建築学科)の初代教師に就任し、日本で初めて西欧式建築教育を行いました。コンドル自身も鹿鳴館・上野博物館・ニコライ堂といった洋風建築を設計し、門下には東京駅の設計で知られる辰野金吾(たつのきんご)をはじめ近代日本を代表する建築家がいます。
晩年は、東京帝国大学名誉教授、建築学会会長・名誉会員を勤めました。
大正9年(1920年)に永眠し、現在ジョサイア・コンドルの墓は文京区の護国寺にあります。
旧岩崎邸庭園と岩崎久彌についてのまとめ
三菱の三代社長の岩崎久彌は、三菱という財閥を築く上で組織運営やマネジメントの面で大きな貢献をした人物であったことがわかります。このような時代背景を知りながら建築や会社の運営について見ていくのも面白いですね。文京つーしんでは皆様の役立つ情報を配信しておりますので引き続きよろしくお願いします。
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