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文京区湯島で育った日本画家の横山大観ってどんな人?

投稿日:2021/08/28by 
文京区湯島で育った日本画家の横山大観ってどんな人?

文京区との区境に近い台東区池之端には横山大観記念館があります。実は、日本画家として有名な横山大観は文京区湯島に住んでいたこともあり文京区に所縁のある人物となっています。そこで今回は、横山大観がどのような人物なのかについてまとめてみました。

 

横山大観ってどんな人?

横山大観(1868-1958)は日本の美術家、日本画家です。横山大観は新時代の日本画を模索して、線画を抑え輪郭をぼかして描く「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる独自の描法を確立しました。大観の作品の特徴としては、「朦朧体」で幻想的な表現を実現したところにあります。

横山大観の本名は、横山秀麿(ひでまろ)で現在の茨城県水戸市の出身です。父は江戸幕府時代水戸藩士の酒井捨彦であるため、父方の苗字の場合は酒井秀麿と名乗っていました。大観が20歳の時に母方の横山家の親戚の養子となり、酒井秀麿から横山秀麿となりました。

 

横山大観の幼少期から青年期

横山大観は、幼少期に文京区湯島地域に居住し、湯島小学校を卒業をしています。中学は東京府中学(現・都立日比谷高校)、高校は東京英語学校(現在の日本学園)に通い英語を学ぶこととなりました。

大観は高校は英語学校であったものの、その後は急遽東京美術学校を受験することを決め、結城正明(ゆうきまさあき)、狩野芳崖(かのほうがい)に教えを受けました。東京美術学校に合格すると、1889年に東京美術学校第一期生として入学します。

東京英語学校を受験する際にも建築家になろうと東京大学予備門試験を受験しているので、その頃から美術や建築に興味があったのかもしれませんね。

 

横山大観と菱田春草

菱田春草

菱田春草

東京美術学校の横山大観の一期後輩に菱田春草がいます。

菱田春草は横山大観の大親友であり、共に海外渡航も経験し成功を収めています。大観は晩年に至るまで自身が日本画の巨匠と呼ばれるたびに「春草こそ本当の天才だ。もしもあいつ(春草)が生きていたら、俺なんかよりずっと上手い」というほど高く評価しています。

菱田春草は肝臓疾患のため39歳という若さで亡くなってしまいますが、横山大観はその際にも菱田春草追悼展の開催を主導し、自らも「五柳先生」と呼ばれる絵画を出品するなどをしています。

後輩というものの横山大観にとっては、菱田春草がいかに大きな存在であったかがわかりますね。

文京区にある永青文庫は、菱田春草の人気作でもある「黒き猫」を所有しており様々な展示会などでご覧になった方も多いのではないでしょうか。

菱田春草黒き猫

 

横山大観記念館の場所・アクセス

横山大観が晩年には居住としても利用していた横山大観記念館は東京都台東区池之端1-4-24にあり、現在は一般公開されています。(コロナウイルス感染拡大のため2022年4月まで休業中)

横山大観記念館アクセス

【電車】

東京メトロ千代田線「湯島駅」徒歩7分

東京メトロ銀座線「上野広小路駅」徒歩12分

JR「上野駅」またはJR「御徒町駅」徒歩15分

京成線「京成上野駅」より徒歩15分

【バス】

都バス「池之端1丁目」バス停より徒歩1分

横山大観記念館は、上野公園の不忍池の近くなので分かりやすい位置にあります。

 

横山大観の活躍した時代とは?

では、横山大観の活躍した時代とはどのような時代だったのでしょうか。

横山大観の生まれた前年の1867年には大政奉還が行われ、江戸幕府が終わりを迎えた時期となります。江戸から明治になる丁度境目に生まれたので、当時水戸藩士であった父をもつ大観が激動の時代の渦中に生まれたことが窺えますね。

明治、大正、昭和と生き抜いてきた横山大観の時代は、明治維新から第二次世界対戦の戦時の時代の移り変わりの時期でした。大観自身は英語に胆嚢であったことから、明治31年(1898年)に「日本美術院」を設立したのちは、海外での展示会などを行っています。

日本美術院創設後の海外で横山大観は、菱田春草と西洋画の画法を取り入れる新たな画風の研究を重ね絵画を次々と発表しました。当時先駆的な描画技法に力を入れていた大観は、保守的とされていた日本美術界での評価よりも海外での評判が高かったとされています。

 

横山大観とGHQ、日本証券取引所

横山大観が外交面で意外な活躍する場面として、第二次世界大戦後のGHQやマッカーサーとやりとりがあります。

第二次世界大戦後に日本証券取引所が取引が中止になった際に、通訳であった清水浩がGHQに取引所再開を了承してもらおうとGHQ副官のバンカー大佐と知人であった大観を頼りました。清水の交渉の末、大観と親しかったバンカー大佐がマッカーサーなどに掛け合ってくれたため日本証券取引所が早期再開の目処をたててもらえたのではと言い伝えられています。

このことから、世界で活躍していた大観は昭和24年(1949年)の東京証券取引所の再開に深く影響を及ぼした人物とされています。そのため、東京証券取引所は現在でも保有している横山大観の絵を毎年一月に一般公開しています。

「日の出」©︎日本取引所グループ

 

横山大観の作品にはどんなものがあるの?

最後に横山大観の作品を見てみましょう。横山大観の「無我」や「屈原」「富嶽飛翔」といった有名な作品は学校の教科書等や資料集でも見たことがあると思いますので今回は少し変わったものを紹介しています。

「村童観猿翁(そんどうえんおうをみる)」

横山大観「村童観猿翁」(卒業制作)東京藝術大学蔵

「村童観猿翁」東京藝術大学蔵

「村童観猿翁」は、大観の東京美術学校の卒業制作です。中央の赤い服を着た猿を操る扇を師匠である橋本雅邦に見立てて、周りの童達を同級生の幼顔を想像して描いたとされています。

 

「秩父霊峰春暁」(1928)

横山大観「秩父霊峰春暁」宮内庁三の丸尚蔵館蔵

「秩父霊峰春暁」宮内庁三の丸尚蔵館蔵

秩父宮家創設の時に作成され皇室に献上されたものです。

秩父霊峰春暁は大観得意の朦朧体で描かれており、春に奥秩父の山間部で放射冷却による霧が発生し、見下ろす雲が海のように見える雲海を、ダイナミックに見事に描いた秀作となっています。

 

「夜桜」(1930)

横山大観「夜桜」

「夜桜」公益財団法人大倉文化財団

「夜桜」は、六曲一双の屏風風形式の作品となっています。1930年、大倉財閥の二代目総帥・大倉喜七郎の「日本美術を世界へ発信したい」という信念から実現したローマ日本美術展への出品作で、総代として企画運営に携わった大観が「祖国の魂の宿れる作品を」との情熱で描きました。
「夜桜」の描写は、暗闇の中のかがり火に照らされた山桜と対比をなす松とが幻想的かつ艶やかに描かれています。桜はすでに散りはじめており、その儚さに日本特有の美意識が感じとれます。

 

まとめ

いかがだったでしょうか。横山大観という日本画家が戦時中や戦後の日本の立役者としていかに活躍していたことがわかりますね。特に横山大観は現在でも財界人のファンが多いのでその繋がりなどをみていくと作品をより楽しむことができるかもしれません。文京つーしんでは、皆様の役に立つ情報を配信しておりますので引き続きよろしくお願いします。

 

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