文京区本郷にある東京大学の安田講堂は、東京大学を象徴する建築物の一つです。この安田講堂は安田財閥の創始者として知られる安田善次郎が寄付したものとなっており、関東大震災、学園紛争の荒波に揉まれながらも現在でも日本の学問のシンボルとしてそびえ立っています。そこで今回はこの安田講堂を寄付した人物であり、安田財閥の創始者と言われる安田善次郎とはどのような人なのかについてまとめました。
安田善次郎の生い立ち
安田善次郎は、越中国富山生まれで幼名は安田岩次郎です。父は富山藩の下級武士であり足軽の安田善悦の子として四男六女の三男として生まれました。
父である安田善悦は、「人に褒められるために善行を施すのではなく、誰にもしられずとも人のためになることを黙々と行うことで人格が磨かれていく」という「隠徳を積む」ことをしきりに子どもたちに教え込み、善次郎は終生肝に命じて実践したとされています。
岩次郎(のちの善次郎)は、1858年に又従兄弟(またいとこ)の林松之助が藩校を卒業して江戸の湯島聖堂の昌平坂学問所に入学する際に同行し、江戸へ移ることとなります。
江戸での就業と自立
江戸に来た岩次郎は、1860年には日本橋小舟町に開店した銭両替兼鰹節商に奉公し、その際に「忠兵衛」と名乗ります。
その後文久3年(1863年)25歳の時に奉公時代の経験を活かし自ら小舟町の露店で銭両替を初めます。翌年には日本橋乗物町で「安田屋」を開店し、両替商のかたわら乾物屋として海苔、鰹節、砂糖を販売をはじめます。
安田屋を開店した際には「克己勤倹(こっききんけん)」の初心にたちかえるために酒とタバコをやめ、名前を「安田善次郎」と名乗りました。
安田岩次郎と両替商
安田岩次郎が銀行家となろうとした理由としては、以下の有名なエピソードがあります。
岩次郎は13歳のときに前田家出入りの両替商の手代が、大阪から藩主の御用金を持参して富山の城下にやってきた際に、勘定奉行が大勢の供回りをつれてわざわざ城下外れまで出迎えしたしたことに驚きを受けました。
特に大商人の代理人が武士の中でも上級武士と呼ばれるものを平伏させる力をもつと知った岩次郎は、激しく心動かされたと言われています。
江戸時代の士農工商という身分制度からすると、さらに武士の上位の役職である勘定奉行という立場の人が商人の代理にそれほど頭が上がらなかったのが非常に不思議に思えたのでしょうね。
安田善次郎が活躍したのはどんな時代?
では、安田善次郎が活躍したのはどのような時代だったのでしょうか。
善次郎が店を構えた文久3年(1862年)は、江戸末期であり日本が諸外国と結んだ日米和親条約(1854年)、日米修好通商条約(1858年)の締結により日本が諸外国との貿易が開始されはじめた頃です。
明治元年が1868年に始まりますので江戸時代の幕末ということがわかります。
日本の貿易開始による問題
江戸時代末期に欧米諸国と貿易が開始されると、様々な問題が持ち上がります。
その一つが、日本の金の海外流出です。
当時、欧米諸国では金銀の価格比が金1に対し銀15から20でした。これに対し、日本での金銀の価格比は金1に対して銀が6あるいは7の比率となっていました。当時の金銀の価格比を諸外国と比べると相対的に日本は銀が割高で金が割安ということがわかります。
この価格比の違いに目をつけた欧米の商人が自ら保有している銀で割安になっている日本の金を買い漁ったために自然と日本の金が海外に流出することが問題となりました。これにより日本から海外に流出した金の量はおおよそ百万両に相当すると言われています。
金流出を防ぐ幕府の対応
そこで幕府は万延元年(1960年)金貨の国外流出を防ぐため、金の含有料の多い天歩以前に鋳造された金銀貨の通用を禁止するとともに、金の使われていた金貨の質を下げるために質の低い万延小判へと改鋳する計画を立てます。
その際に、両替商と金座に古金銀貨幣の回収と新金貨の引換業務を委託することにします。
この業務を担当したのが当時両替商を行なっていた安田商店です。特に両替の際に「安田屋善次郎包み」は間違いがないとされ政府御用を受ける出発点となりました。
明治政府の通貨政策
さらに、安田善次郎は江戸幕府が倒れ明治政府となった際にも巨額の利益を得る機会に恵まれます。
明治政府の太政官札(だじょうかんさつ)
明治時代になると資金のない明治政府は予算の確保を太政官札(だじょうかんさつ)という金札で賄おうとしました。さらに流通を図るため「通用十三年限」という利子付き国債も発行しました。
当時は、旧江戸幕府時代に出された藩札が紙切れになってしまったこともあり、民衆の中には明治政府は転覆するとの考えを持つものも多くいました。そのため、信用の薄い明治政府の太政官札は額面通りに流通せず、額面割れを起こし明治2年4月には半値以下に暴落してしまいました。
一方で、安田善次郎は政府の窮状を見かね市場の混乱を承知の上で、金札が額面通り等価交換されることを見越して多くの太政官札の買い入れを行いました。
その後、政府は金札を額面以下で流通させることに罰則を加え、額面以下で販売する違反者の取り締まりを強化しました。それにより、徐々に太政官札の相場の下落は止められほぼ額面通りで流通するようになります。
これにより善次郎は、莫大な利益を手に入れ明治2年1月以降約9000両の利益をあげ一年間で資産を約3倍にしたとされています。
銀行家としての安田善次郎
その後は、両替商から公金を取り扱う業務の受託へと移り変わり、銀行家安田善次郎として事業を広げていきます。
さらに善次郎は、明治政府が西洋諸国に対抗し行なった機械制工業の徹底、鉄道網整備、資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策としての殖産興業への資本の支出なども行いました。
その他、財力や銀行の手腕から国立銀行の再建を引き受けたり、保険事業などの展開も行っています。
安田善次郎と戦争
また、戦争にかかる費用についても多くの出資をしており、日清戦争では勅令で軍事公債5千万円を発行し伊藤を助けました。
日露戦争直前の明治37年(1904年)1月には自ら山縣有朋を訪ね、資本家の本来の役割が小さな事前活動ではなく大きな公共事業への貢献であることを述べて戦時公債を一手に引き受けています。その費用は日露戦争終結までに戦費約20億円のうち10億7千万円を調達し、1907年までに戦後処理用として2億3千万円を追加調達、その累計額は13億円に上ったとされています。
安田善次郎と大正デモクラシー
日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と戦争で大きな利益をあげ続けてきた日本は多くの財閥や利益を生むも国内では貧富の差が飛躍的に拡大したことから民主主義運動へと発展することになります。
大正7年(1917年)には一部商人の投機的な動きで米の価格が高騰したことをきっかけに各地で米騒動が勃発、大正9年(1920年)の2月11日には普通選挙実施、治安警察法の廃止を求め数人規模のデモが起きるなど、大正デモクラシーと呼ばれる社会運動が盛り上がりを見せていました。
このような時代背景のなか、明治初期から続いた藩閥政府との繋がりの強いものへの反発が多くなります。
安田善次郎の死
大正10年9月28日、安田善次郎はこの社会運動に影響を受けた神州義団団長を名乗る朝日平吾によって殺害されてしまいます。
時の首相であった第19代総理大臣の原敬も2ヶ月後に刺殺され、第20代総理大臣の高橋是清も2・25事件の犠牲となりました。
安田善次郎の遺体は生前篤く信仰していた浅草の菩提寺である聞成寺に葬られた後、手狭になったため現在では、文京区の護国寺へと移されています。護国寺内の安田善次郎の墓は壁によって囲まれているため中に入ることはできませんが隙間から中の様子を伺うことができます。
善次郎の死後、長男の安田善之介が先代の遺志の実現に努め、その中の一つが東京帝国大学(現在の東京大学)の安田講堂の寄付となっています。その他にも日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校地などが善次郎の寄付となっています。
安田善次郎まとめ
いかがだったでしょうか。両替や銀行業という一般の人々には少し分かりにくい分野ですが、江戸の幕末から明治時代には新しく事業をはじめるものには非常に大きなチャンスがあったことが窺えますね。また、そのような大人物の中には文京区にゆかりのある方も多くいるので一人一人から学べることは多そうです。文京つーしんでは皆様に役立つ情報を配信しておりますので引き続きよろしくお願いします。
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