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三井財閥の起源である三井高利ってどんな人。文京区との繋がりは?

投稿日:2021/10/23by 
三井財閥の起源である三井高利ってどんな人。文京区との繋がりは?

文京区には、江戸時代から続く豪商である三井家によって土地を寄付された日本女子大学や、第三中学校があります。明治期には財閥と呼ばれるほどになった歴史ある三井家はどのような歴史を持つ家柄なのでしょうか。そこで今回、三井家の成り立ちと繁栄、文京区との繋がりについてまとめてみました。

 

三井家のはじまりは?

現在三井グループの歴史の「元祖」とされるのは、三井高利(たかとし)と呼ばれる人物です。

高俊夫妻

高利夫妻

三井高利は江戸時代元和8年(1622年)の生まれで、出身は古来商業と流通の中心地であった伊勢国(現在の三重県)の松坂となっています。高利は父・高俊(たかとし)と母・殊法(しゅほう)の8人兄弟4男4女の8番目の末子として生まれたため、通称は「八郎兵衛」と呼ばれていました。

この場所は現在でも三重県松坂に「三井家発祥の地」として残っています。

実は、三井家が商人として活躍していたのは三井高利の祖父である高安(たかやす)の代から始まっていると言われており、当時から「三井の同族経営」片鱗をうかがうことができます。

 

三井高利の生まれた三井家のルーツ、祖父の「三井高安(たかやす)」

三井家の商人としてのルーツは高利の祖父である三井高安にまで遡ることができます。

三井高安はもと近江(現在の滋賀県)の佐々木六角氏に使える武士で、高安の代に織田信長に脅かされ、伊勢に移ったとされています。そのため、三井家の家紋は鎌倉時代から続く佐々木六角氏と同じ「四つ目結」が使われています。

四ツ目結

四ツ目結

伊勢に移った後に高安は町人として生きたため、伊勢の豪商と縁戚であった高安を近代の三井では「家祖」と呼んでいました。

 

高利の父「高俊(たかとし)」・母「殊法(しゅほう)」

次に、三井高利の父である高俊と母の殊法について見てみましょう。

先程の三井高安の子であり、三井高利の父にあたる三井高俊は、松坂で酒・味噌を賄い、質屋も営みました。特に、妻の殊法は、激しい性格の非常に商才ある人物で「三井家商いの元祖」と言われています。のちに高俊と殊法の3人の息子はいずれも一流の商人となります。

 

三井高利の兄弟との関係

末子として生まれた高利は、14歳で江戸に出て長男の店で修行し、28歳で松坂に戻った後、52歳で江戸と京都に店を開き、驚異的な成功を収めるという経歴を持っています

特に長男・俊次(としつぐ)は京都・江戸で成功した商人でした。そのため、次男の重俊(しげとし)や高利もまずは長男の江戸の店で勤めて、経験を積むということを行っています。

高利は、江戸での兄への奉公のあとは老母の面倒を見るために松坂にもどり、主に金融業に励み店を構えるための資産を蓄えたとされています。

 

江戸進出の際にはどのような商売をしていたのか?

高利は延宝元年(1673年)に52歳で江戸に出てくると呉服店として本町一丁目(現在の中央区日本橋本石町)に店を構えます。

当時呉服は様々な原料と工程からなるため、最高級の工業製品とされており、京都が一番の産地となっていました。

そのため、高利の江戸の店舗は、間口9尺(約2.7m)のささやかなものでしたが、商品の仕入れを長男・高平(たかひら)が京都で行い、江戸には次男・高富(たかとみ)と奉公人・理右衛門らを置き、自らは松坂から指揮をするという仕組みの伴うものでした。

生産地の京都・中間の伊勢の松坂・販売の江戸という仕組みづくりを当初から考えていたのは、その後三井が大きくなっていくことと深い関係がありそうですね。

江戸の駿河移転と両替業の開始

このような仕組みが出来ていた高利の事業は、当初から大きな成功を収めました。しかし、一方では同業者たちの大きな反発にあうこととなります。同業者の中には高利に妬みを持つものもおり店の便所を高利の台所に向けて作るといったものもいたようです。

そのため、天和2年(1682年)の大火事をきっかけに、翌年には店を駿河町(現在の中央区日本橋室町)に移転し、この際には、呉服店の他に両替業も併設しました。

以降、三井は呉服部門と金融部門の2つの部門を中心に発展していきます。

さらに、これらの成功を収めた高利は、「江戸の丸の内に三井」を表す独自の暖簾印を使うようになり、江戸の正月風景図などでも度々目にすることができます。

丸に井桁三

丸に井桁三

駿河町越後屋正月風景図

駿河町越後屋正月風景図

金融部門の推進

為替の金融部門は元禄3年(1690年)に幕府の財政を司る勘定所の用事も受けるようになります。

特に、大坂御金蔵銀御為替御用(おおさかごきんぞうぎんおかわせごよう)と呼ばれる事業は金融部門の大きな発展へとつながっていきます。

大坂御金蔵銀御為替御用とは

大坂御金蔵銀御為替御用とは、幕府の金蔵である大坂御金蔵に集まった何万両もの銀貨を受け取り、それを60日後(すぐ後に90日期限)に江戸の御金奉行に上納することです。

これまでは現金を東海道経由で送金していましたが、それを為替によって行うというものです。大坂で受け入れた金銀は、江戸での上納期限まで60日~90日あるので、その間に運用すれば大きな利息を計上できます。この為替の御用によって、三井越後屋は多大な利益を受けることになり、御用引受を根幹とした三井の両替店は呉服店から独立し、大坂高麗橋に出店しました。その後も、金融業は大きな成長を遂げていくくこととなります。

幕府御用達となったの三井の影響力の変化

三井が幕府の御用商人となったことで、三井家への同業者の嫌がらせも収まるということにもつながりました。そのため、御用達のきっかけとなった綱吉の籠臣である牧野成貞には特別に大名相手に融資を行うなどの優遇をするといった三井ならではの対応もされています。

 

明治期の呉服部門と金融部門の分離

明治期に入ると明治政府は三井を銀行制度の中心に据えようと構想しており、幕末以来続く社会変動により得意先を失い失墜していた三井の呉服店の分離を促しました。

特に、明治4年1月には大蔵大輔・井上馨が自邸に当時三井の代表をしていた三野村利左衛門を招き、大隈重信と渋沢栄一とともに「三井」の名で営んでいる呉服店が信用を失墜させるとして「三井」の名前を金融以外で使わないように勧告し、その場で即答を求めました。

銀行設立を一番の目標としていた三井首脳陣はこれを了承し、その後、三井は明治5年には銀行設立に専念することにし呉服店の分離を行います。

分離後の呉服店

では、分離後に三井の呉服屋はなくなってしまったのでしょうか。

実は、東京・京都・大阪の三井の重役が集まり協議した結果、越後屋呉服店を大元方の所管事業から切り離した上で、新たに「三越家」を起こし、三井家が三越家へ呉服業を譲渡する形を取ることで分離独立させることとしました。

そのため、分離後の呉服店は三井の「三」と越後屋の「越」をとり「三越家」として架空の一家を創立し、これに呉服店を譲渡するという形式が取られるようになりました。さらに店章も従来の井桁三文字を廃止、新たに丸に越があてられることとなります。

これが、皆様の知る現在の三越の起源となっています。

まるこし

丸越

駿河町雪 小林清

駿河町雪 小林清

このような成り立ちをみていくと現在の三越の起源やららぽーとやアウトレットモールのような一見すると三井とは関係なさそうなところで「三井グループ」が運営している理由がわかりますね。

 

三井高利と文京区小石川との関係

最後に三井高利を祖とする三井家と文京区小石川の関係をみていきましょう。

三井高利には10男5女と多くの子どもがおり、特に息子たちは父を助け活躍することとなりました。

高利の子孫である「三井同苗(どうみょう)」は、のちに男系子孫の本家が6つと、女系子孫の5連家からなる11家となっており、その全体で資産と事業を共有するのが伝統となります。

三井十一家の一つが小石川家(出水家)

では、文京区小石川ゆかりの三井家はどの人物が引き継いだのでしょうか。

三井各家には三井の「姓」とは別にそれぞれ「家名」がありました。

のちに「小石川家」の家名を継ぐ家系は、京都・油小路出水に本邸があったことから11家の中で「出水家」と呼ばれていた家系になります。明治に入り、三井各家は東京に転居し、出水家は小石川区(現文京区)に本邸を構え、以後、「小石川家」を名乗るようになります。

小石川家の系譜について

三井家系を見ると小石川家の系譜は、高利の十男の三井高春(たかはる)であるようです。高春は高利の次男・高富もしくは六男・高好の養子として育ち、のちに「小石川家」を名乗ることになります。

 

三井小石川家の現在

現在、三井家の本邸跡は文京区立第三中学校の敷地にあります。

明治期には三井家の子孫であり小石川家6代当主の三井高益の娘である広岡浅子によって寄付された日本女子大学の目白台の土地も本来は三井家の土地でした。

第三中学校

第三中学校

また、椿山荘には京都二条城前の三井邸から戦後に移された五慶庵などを個室として利用できるなどのサービスもあるようです(※要確認)。

現在では、小石川周辺ではあまり三井に関するものを見ることができなくなってしまいましたが、このような歴史を考えると小石川・関口・目白台のあたりが少し理解できてくるようになりそうですね。

 

文京区と三井家まとめ

いかがだったでしょうか。現在では様々な事業を営む三井グループですが、起源をたどると他の財閥にはない企業の歴史が見えてきますね。このような経営に関する指針は現代の新しい起業家が求められる日本でも必要になってきそうです。文京つーしんでは皆様の役に立つ情報を配信しておりますので引き続きよろしくお願いします。

 

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