太田道灌は武将という身分でありながら、多くの神社を創建や再興し、江戸城を初めさまざまな城を築城した人物です。現在でも都内には太田道灌の名前が残る場所が複数あります。そこで今回は、太田道灌がどのような人物であるのか、文京区と太田道灌の関係についてまとめてみました。
太田道灌とは?
太田道灌(1432-1486)は、相模出身の室町時代中期から戦国時代の前半に活躍した武将です。武将としては、30数回以上戦って負けなしという名将であったとされています。また、歌人や築城家としても知られており、江戸城を初めて築城したことでも有名です。
太田道灌が生まれた時代や太田家とは?
室町時代は、室町幕府として幕府は京都にありましたが、東国支配として鎌倉公家(公方)が鎌倉に置かれていました。鎌倉公方には、幼少の公方を補佐するために関東管領(かんれい)が置かれており、この役職を太田家の属する上杉家が受け継いでいました。
上杉家と太田道灌の父「太田資清(すけきよ)」
室町時代の関東地方では、上杉家の中でも山内上杉家と扇谷上杉家の二家が勢力を持っていたとされています。
太田道灌の父である太田資清は、扇谷上杉家に属しており、扇谷上杉家の上杉憲実が行う関東管領を補佐する家宰(かさい)という役職を取り仕切っていました。山内上杉家を支える長尾景仲と扇谷上杉家を支える太田資清の2人は、「関東不双の知恵物(案者)」と呼ばれるほど重要な人物でした。
道灌の生い立ち
太田道灌の「道灌」という名前は、出家後の法名で本名は太田資長(すけなが)です。
太田資長(道灌)は、鎌倉五山や足利学校(栃木県足利市)で学んだ後、文安3年(1446年)に元服し、享徳2年(1453年)に足利将軍家や守護の初叙位階である従五位下を授けられました。その後、享徳4年(1455年)頃には品川湊近く(現在の御殿庭園あたり)に居館を構えたとされています。
この時期には通商を押さえ、政商の鈴木道胤との関わりなど経済面での才覚も示しましたが、享徳3年には、関東地方一円で「享徳の乱」が起こったため父の跡を継いで武将としての活躍を見せていくことになります。
享徳の乱について
享徳3年(1454年)には、鎌倉公方の足利成氏が関東管領の山内憲忠を暗殺したのをきっかけに、利根川を境に室町幕府の関東の拠点である鎌倉を押さえた上杉氏と、鎌倉から下総国古河に追いやられた古河(元鎌倉)公方成氏が対峙する争いがはじまりました。この上杉家と足利成氏の争いは「享徳の乱」と呼ばれ、その後文明14年(1487年)まで約28年間断続的に続くことになります。
このあたりの歴史は鎌倉時代から室町時代の移り変わりも含んでいてややこしいですが、上杉氏率いる関東管領が仕えていた鎌倉公方に暗殺されたということですね。室町幕府は足利尊氏が征夷大将軍として京都で開いた幕府であり、この当時は8代将軍の足利義政になっています。一方で鎌倉公方の足利成氏は、幕府から独立をしたいのだけれど、関東管領の補任権を室町幕府が持っていたため室町幕府寄りである関東管領の上杉氏と対立したということです。
享徳の乱中の25歳の太田資長(道灌)
長禄元年(1457年)、太田資長(道灌)が25歳頃には、父の資清を継いで扇谷上杉家の家宰となります。これにより大きな力を得た太田資長は、享徳の乱で活躍を見せることとなります。
この時期に太田資長(道灌)は、勢力拡大のため古河(元鎌倉)公方についた千葉氏に対抗する拠点として平安時代末以降江戸氏の館があった今の江戸城の本丸、二の丸辺りに江戸城を築きました。以下は長禄期江戸地図になります。
太田道灌の江戸城
太田資長(道灌)が、江戸城を築城する際には、現在の赤羽、湯島、品川、川崎の夢見が崎などが候補地となりました。その後、城の築城にあった地形などが考慮されて江戸に決められたとされています。
江戸城の築城の後には、日枝神社をはじめ、築士神社、平河天満宮、市ヶ谷亀ヶ岡八幡など今も残る数多くの神社を周辺に勧請しました。神社の勧請は、神仏の力を借りるという建前もありましたが、戦国時代にみられる要地に神社を配置して陣所や砦にするという狙いもあったようです。
太田道灌といえば、多くの神社の創建や再興を行った人物として名前を聞くことがありますが、当時の戦国時代の名残ともいえそうですね。
その後、太田資長は文明3年(1471年)、39歳頃に出家し、法名である「道灌」と名乗ったとされています。しかし、文明8年(1476年)には山内家家宰の家督めぐりのために犬懸政憲と兵を率いて駿河を訪れているため、この時期には既に還俗しているようです。
太田道灌の暗殺
太田道灌は晩年に奥谷上杉家の上杉政真・定正の2代にわたって仕えるのですが、本家の山内上杉氏は道灌の手腕で扇谷上杉氏が強大になることを恐れます。
そこで山内上杉氏が、扇谷上杉家の上杉定正に道灌に謀反の企てがあると噂を流したため、太田道灌は君主である上杉定正の家に招かれた際、扇谷杉家の家臣である曽我兵庫によって風呂から出たところを暗殺されてしまいます。
太田道灌と文京区
以上のような経歴のある太田道灌ですが、太田道灌は文京区とも関わりのある人物でもあります。文京区本駒込3丁目にある吉祥寺や、本郷4丁目にある櫻木神社は道灌による創建が伝わっています。また、根津神社や湯島天満宮、小日向神社に合祀(ごうし)される氷川神社は、道灌による再興とされています。
以下では道灌にゆかりのあるそれぞれの神社について少し紹介していきます。
櫻木神社
櫻木神社は、文京区本郷4丁目の春日通り沿いにある神社になります。櫻木神社は、御祭神の菅原道真公と社号の桜の文字から「サクラサク」神社として受験生や学生にも人気の神社となっています。
櫻木神社の創建は約500年前に遡ります。文明年間(1467年-1487年)に太田道灌が江戸築城の際に、菅原道真公の神霊を京都北野の祠より同城内に勧請しました。その後、徳川二代将軍秀忠の時代に湯島の高台となっていた旧櫻の馬場の地に神祠を建立し、第五代将軍綱吉が同所に湯島聖堂を中心とする昌平坂学問所を設立するにあたって現在の地に遷座することとなりました。
吉祥寺(きちじょうじ)
吉祥寺は、文京区本駒込3丁目の本郷通り沿いにある神社になります。江戸時代には吉祥寺には栴檀林(せんだんりん)といって、曹洞宗の学問所があり、学寮・寮舎をもって常時1,000人以上の学僧がいたとされています。境内には二宮尊徳、榎本武揚、鳥居耀蔵、川上眉山の墓があります。
吉祥寺の創建は、長祿年間(1457年-1460年)に太田道灌が青厳周陽(せいがんしょうよう)を開山に招いて、江戸城の和田倉門内に建立したことに遡ります。天正18年(1590年)には徳川家康が江戸城造営の際神田台(水道橋北側)に移し、明暦3年(1657年)の大火ののち現在地に移りました。
湯島天神(湯島天満宮)
湯島天神(湯島天満宮)は、文京区湯島3丁目の春日通り「切通坂」沿いにある神社になります。主祭神には学問の神様と知られる菅原道真公を祀っているため、受験シーズンには多数の受験者が訪れます。
湯島天神(湯島天満宮)の創建は 雄略天皇が458年に出した勅命により建立されたと伝えられています。その際に、天之手力雄命(あまのたぢからおのみこと)が祀られました。その後、正平10年(1355年)に人々が菅公のご偉徳を慕い、学問の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀しました。文明10年(1478年)十月には、太田道灌がこれを再建したとされています。
根津神社
根津神社は、文京区根津1丁目にある神社です。根津の下町にある根津神社は「つつじ」の名所ともなっており、毎年4月上旬〜5月上旬にかけて文京区花の五大祭りの一つとして文京つつじ祭りが開催されています。
根津神社はの創建は、景行天皇(110年-113年)の御代日本武尊が駒込の地に創祀したことに遡ります。後に文明年間(1467年-1487年)に太田道灌が社殿を奉建しました。現在の社殿は宝永3年(1706年)に第5代将軍徳川綱吉が嗣子家宣の氏神社として当地に奉建したもので、社殿の他にも当時の唐門、透塀、楼門等の結構がすべて現存しており、国の重要文化財に指定されています。
太田道灌と文京区のまとめ
いかがだったでしょうか。太田道灌は歴史の中心となる人物というわけではないのですが、東京に住んでいると文京区以外の地域でも名前を聞く機会が多いですね。室町時代や戦国時代の時代背景と共に江戸以前の東京の歴史を知るきっかけにもなりそうです。文京つーしんでは引き続き皆様の役に立つ情報を配信しておりますのでよろしくお願いします。
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