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神田上水からみる水道橋のルーツについて。文京区と上水道

投稿日:2022/05/28by 
文京区の神田上水からみる水道橋のルーツについて

東京都千代田区と文京区の区境には水道橋駅があります。文京区といえば、日本で初めて上水道が設備された地域ですが、水道橋とはどのような関係があるのでしょうか。今回は、水道橋周辺の施設を踏まえ上水路との関係を見ていきたいと思います。

 

そもそも上水道ってどんなもの

上水道は、生活用水として飲むことができるな水を人々の住む地域に供給する設備になります。日本では、徳川家康が江戸に入府する際に日比谷周辺までが海となっており、地下を掘っても海水であったため飲用水の確保として小石川上水を作ったのが本格的な上水道の始まりとされています。その後、小石川上水は三代目徳川家光の時代に神田上水に拡張されました。

 

当時の神田上水の経路について

では、当時の上水道の経路はどのようなものだったのでしょうか。

江戸時代の神田上水は、井の頭池から始まる流れに全福寺池、妙正寺池の流れを落合で合わせ、関口の大洗堰(おおあらいぜき)で取水して水位をあげ、小石川を経てお茶ノ水、江戸城郭内に入り、神田や日本橋方面に至りました。

では、文京区内の経路についてもう少し詳しく見ていきましょう。

文京区内の神田上水の経路

文京区内の神田上水は、以下の赤線で示される経路となっていました。

文京区神田上水ルートマップ

文京区神田上水ルートマップ

この地図から、当時の神田上水の経路は、関口大洗堰(現在の江戸川公園近く)を通った後、現在の文京区立金富小学校の前を通り、水戸屋敷(現在の小石川後楽園の地)を通り、水道橋付近で上水道を水道用の橋(掛樋)で渡し、神田・日本橋方面に給水していたことがわかります。

このように見ると当時の神田上水のルートが現在の神田川とは別のルートであることがわかりますね。

 

神田川に架かる掛樋(かけひ)とは

掛樋は、水路用の橋のことです。当時は、上水道が神田川の上を渡るために設置されていました。こちらの様子は、以下の江戸名所図会の「御茶の水 水道橋 神田上水懸樋」からもわかります。

御茶の水-水道橋-神田上水懸樋

御茶の水 水道橋 神田上水懸樋

この絵では、広大な神田川を渡る船から人々が掛樋をみている様子が窺えますね。この掛樋については、東京都水道歴史館にジオラマがあり、わかりやすく説明されていますので興味のある方は訪れてみてください。

掛樋と水道橋について

このようにみていくと、「水道橋」という名前はこの掛樋のことのように受け取ってしまいますが、万延2年(1861年)の江戸の地図を見てみると上水道とは別に水道橋が記載されており、掛樋がそのまま水道橋となった訳ではなさそうです。

文京区万延2年水道橋周辺地図

万延2年水道橋周辺地図

 

現在の上水路の名残

この神田上水道は、明治34年(1901年)6月に飲用水としての給水を停止してしまいましたが、現在でも文京区内では当時の名残がある場所が多くあります。

金富小前の「水道通り」

当時上水路であった文京区立金富小学校前の道路は、神田上水の流路で地上部につくられた水路の開渠(かいきょ)であったものを、明治の初めに地下に埋没した水路として暗渠(あんきょ)にしたものとなっています。この道は現在でも通称「水道通り」と呼ばれており、近隣には「水道」と名前つくものを見かけることができます。

文京区「水道通り」

文京区「水道通り」

小石川後楽園の神田上水跡

小石川後楽園内には、神田上水跡として水路が現在も残っています。江戸時代には水路の幅が広かったようで、園内の大堰川(おおいがわ)にはかつては神田上水の水を引き入れていたという記載もあります。

左/中:神田上水跡,右:大堰川

左/中:神田上水跡,右:大堰川

神田上水掛樋跡

現在の東京都立工芸高等学校や文京区立元町公園の神田川沿いには神田上水掛樋跡が残っています。神田川が見下ろせる位置にあり、当時の様子が記された案内板もあります。

文京区神田上水掛樋跡

 

水道橋は掛樋ができる以前はどう呼ばれていたのか?

では、水道橋は上水路や掛樋ができる以前はどのように呼ばれていたのでしょうか。そのヒントが以下の東京名所図会の本文「水道橋」の上項にあります。

「小川町より小石川への出口、神田川の流れに架す。この橋の少し下の方に神田上水の懸樋あり。故に号(な)とす。(この下の川は、万治の頃(1658~60)仙台侯鈞命を奉じて、掘割らるゝ所なりといふ。)万治の頃まで、駒込の吉祥寺この地にあり。その表門の通りにありしとて、この橋の旧名を吉祥寺橋ともいへり。」

実は、当時の水道橋周辺は、 江戸屏風右隻からも見ることができます。江戸屏風は、江戸時代初期の江戸市街地および近郊の景観を画題として、そのなかに江戸幕府第三代将軍徳川家光の事蹟を描き込んだ六曲一双の屏風となってます。

江戸屏風右隻

江戸屏風右隻

江戸屏風右隻の中でも吉祥寺(きちじょうじ)が描かれているのは、左側の以下の部分となります。

吉祥寺

吉祥寺

下の絵では吉祥寺とその左側に橋が架かっているのがみられます。こちらの橋は東京名所図会の文章からみると江戸時代の初期には、吉祥寺橋と呼ばれていたことがわかります。つまるところ、水道橋は上水道や掛樋ができる以前は吉祥寺橋と呼ばれていたようです。

当時の吉祥寺は、現在の井の頭公園のある吉祥寺駅と文京区駒込にある吉祥寺のルーツとなるお寺となっています。

 

文京区にあった神田上水からみる水道橋のルーツについてのまとめ

いかがだったでしょうか。水道橋というと神田川を渡るための橋かと思いましたが、実は名前の通り水道の橋(掛樋)に由来する橋だったようですね。文京区にはこのように身近なことを調べてみると意外と歴史がある場所が多いので面白いですよね。文京つーしんでは、皆様の役に立つ情報を配信しておりますので引き続きよろしくお願いします。

 

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