文京区にある護国寺には明治の有名な人物のお墓が多くあり、現在でも墓守として親族のかたがお墓を守っています。今回は、大倉財閥を築いた大倉喜八郎の婿養子にもなり、明治時代に数多くの事業の重役を担った大倉粂馬についてまとめてみました。
大倉粂馬とはどんな人?
大倉粂馬は、本名を伊藤粂馬*といいます。愛知県の士族であった伊藤晴雄の次男として慶應二年三月に生まれました。学生時代は、東京駅の設計で知られる辰野金吾らと同じ帝国大学工科大学に入学し、明治21年に工学士の資格を取り卒業しました。その後、大倉喜八郎らが設立した日本土木会社に入社し、大倉家と深いつながりを築いていきます。
慶應2年3月には大倉喜八郎の四女である大倉トキと結婚し、その際には、養子縁組と同時に養親の娘と婚姻を行う養子縁組の一形態である婿養子を選びました。
その後、粂馬は明治38年11月に分家し一家を創立しています。家族は二男豐治郞、三男銀三郞、長女美代子となっています。
*本名が伊藤粂馬である一方で、野口粂馬として知られています。明治3年(1870)年に「平民苗字許可令」が発令され、それまで貴族や武士たちしか公称することができなかった苗字が、庶民にも公称することが認められたことに端を発しています。
野口粂馬と日本土木会社
野口粂馬は、大学卒業後に日本土木会社に入社します。この会社は大倉喜八郎が創設者の一人ということもあり、大倉家と深い繋がりを築くきっかけとなった会社になります。
そのため、ここで少し日本土木会社についてみてみましょう。
日本土木会社について
有限責任日本土木会社と合名会社大倉組は現在の大成建設の前身となる企業です。
日本土木会社は、明治20年(1887年)3月大倉喜八郎、渋沢栄一、藤田伝三郎によって、資本金200万円で設立されました。そのため、日本土木会社は、取締役が大倉喜八郎、取締役社長が藤田伝三郎と渋沢栄一となっています。
しかし、この資本金を分け合い設立した有限責任日本土木会社は設立から5年8ヶ月で会社を解散しています。
これは明治政府が、明治25年の旧会計法の中で「国が当事者の一方となって行う私法上の契約、つまり工事および工事物件売買貸借が、原則として一般競争契約になる」ことを規定したためです。
これまでは、中央官公庁、陸海軍が発注する工事の多くが、「発注者が業者を指定し、合格したものが工事を受注する」という「特例見積方式」を採用しており、日本土木、鹿島、清水といった大手は、政府からすると高度の技術で安定した成果が期待でき、納期も守られる利点もありました。一方で、「特例見積式」は、新規事業者の参入が事実上不可能という欠点を指摘され廃止されました。
一般競売契約では、収支の見積もりが立てづらいことが大企業であった日本土木会社にとっては重大な課題となってしまったようですね。
明治25年(1892)に日本土木会社は解散し、大倉喜八郎に関する事業は大倉土木組に移管されました。
この時の当時の状況を後に、喜八郎から大倉土木組の後継に指名された大倉粂馬は以下のように語っています。
「政府は陸海軍の整備、拡張を急ぐがあまりに、日本土木会社を設立させたが、その組織が膨大に過ぎ(中略)このため日本土木会社はその声望においても、実力においても、当時の官界を威圧する観があって、それが官僚に忌諱されて、当初の目的を達することができず、ついには解散するに至った」
大倉組と大倉粂馬
日本土木解散後、大倉粂馬は、明治26年に大倉喜八郎の四女トキと結婚します。翌年、明治27年(1894)には大倉組の土木建築部門最高責任者である「店主」という役割で経営に当たることとなりました。
大倉粂馬が、大学を卒業後わずか5年という期間で大倉組の部門責任者に抜擢されるということは、いかに優秀な人物であったかがわかりますね。
その他の役職
その後、生涯大倉粂馬は、大倉組のほかにも以下のような役職を担ったことで知られています。
中央セメント株式會社專務取締役、東京建物株式會社、上信硫黄株式會社各取締役、日清豆粕製造株式會社、東海紙料株式會社、日本防腐木材株式會社各監査役
今回の記事について
今回の大倉粂馬様につきましては、現在墓守をされている玄孫にあたる美幸様からの推薦をいただき執筆に至りました。美幸様によると「粂馬さんは、婿養子でご苦労もあったと思いますが立派な方と私は思えてなりません。彦一郎さんとは中学まで一緒に住んでおりましたがユーモアのある素敵な祖父でした。」とのことです。
現在でもこのように数々の偉業や人となりが受け継がれており、多くの人にとって今でも大切な人だということがわかります。このような明治の偉人たちに私たちも学ぶところは多くありそうですね。
大倉粂馬のまとめ
いかがだったでしょうか。大倉喜八郎と共に明治時代の経済をけん引していた人物の一人として大倉粂馬も重要な役割を担っていたことがわかりますね。護国寺に行った際には、明治の偉人たちを思い起こすことが多くなりそうです。文京つーしんでは皆様の役に立つ情報を配信しておりますので引き続きよろしくお願いいたします。
コメントを残す
コメントを投稿するにはログインしてください。