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大倉喜八郎ってどんな人?大倉財閥、大成建設との関係

投稿日:2021/09/11by 
大倉喜八郎ってどんな人?大倉財閥、大成建設との関係

文京区の護国寺には一代で財閥を築きあげた大倉喜八郎の墓所があります。大倉喜八郎といった人物が一人で財閥の一端となれた理由はどのようなところにあるのでしょうか。そこで今回はこの大倉喜八郎についてまとめてみました。

 

大倉喜八郎とはどんな人物

左:渋沢栄一 右:大倉喜八郎

左:渋沢栄一 右:大倉喜八郎

大倉喜八郎は、越後(現在の新潟県)出身の明治、大正期に活躍した実業家です。三井や三菱と比べられるほどの中堅財閥となった大倉財閥の創始者であり、現在の大成建設の創始者としても有名です。 

明治10年(1877年)西南戦争から第一次世界大戦(1914〜1918年)の間の期間に武器商、軍事建築、輸送の面で大きな利益をあげた人物です。戦時中には、大倉組として釜山などの都市や中国、台湾、ロシアといった国々に主な活動の拠点がありました。

明治初期には、当時役人が旅費がでる状況で海外視察をしていた時代に、商人という身分でありながら自腹で市場調査という名目で通訳をつれて民間人初の欧米視察をしています。

 

建築業界での評価

大倉喜八郎という名前は、建築業界ではスーパーゼネコン(通称:スパゼネ)の一つである大成建設の創業者として知っている方も多いのではないでしょうか。現在のスパゼネと呼ばれる総合建設業者のトップは鹿島建設、大成建設、清水建設、大林組、竹中工務店の5社となっています。

大成建設は、大倉喜八郎の設立した有限責任日本土木会社が土台となっており東京都庁第一庁舎をはじめ、現在でも多くの建築物を手がけています。

都庁

都庁第一庁舎

 

護国寺内の大倉喜八郎墓所のアクセス

次に、文京区内にある大倉喜八郎と関わりのある場所についてみていきましょう。

現在、大倉喜八郎の墓所は文京区護国寺の境内にあります。

大倉喜八郎 護国寺の墓

大倉喜八郎 護国寺墓

大倉喜八郎の墓所は、椿山荘の所有者や第3代・第9代内閣総理大臣として有名な山縣有朋の墓所の隣にあり比較的広い敷地のためわかりやすいです。

左:大倉喜八郎墓 右:夫人墓

左:大倉喜八郎墓 右:夫人墓

こちらのお墓は、通常施錠されており中に入ることはできませんが、外からでも十分にその偉大さが窺えます。

 

大倉喜八郎と山縣有朋との繋がり

大倉喜八郎の墓所の位置は山縣有朋の隣ということですが、生前はどのような関係だったのでしょうか。

護国寺の山縣有朋

山縣有朋

山縣有朋と大倉喜八郎の繋がりは、大正9年(1920年)に小田原の山縣有朋の別荘の隣に大倉喜八郎が別荘を作ったことで庭続きの付き合いになったようです。

山縣有朋は、椿山荘意外にも9つの別荘をもっており、長州吉田村に「無鄰菴」、東京文京区の「椿山荘」、大磯の「小陶庵」、京都の「無鄰菴」、小石川の「新々亭」、小田原の「皆春壮」、東京麹町の「新椿山壮」がありました。

この時期には大倉喜八郎が84歳、山縣有朋は81歳という年齢を考えると、おそらく以前から知り合いであったが晩年には特に親睦を深めたことが窺えますね。

 

大倉喜八郎が活躍した時代

大倉喜八郎は、1837年から1928年の生涯を生きました。明治維新が行われたのが1868年のため喜八郎は、30代頃から急激に活躍していったことが分かります。

また、同時代に一代で富を築いた人物として三菱の岩崎彌太郎がいますが、どちらかというと大倉喜八郎は政府寄りの思想だったようで三井財閥や渋沢栄一といった国益を重視する立場の人物でした。

西南戦争(1877)、日清戦争(1894)や日露戦争(1904)、第一次世界大戦(1914)といった戦争の多い時代の中で武器商人や土木・建築業を営み実業家として、僅か60年で中堅財閥にまでのし上がってくるほどの行動力や先見性は同時代の世界の実業家と比べても引けをとらなそうです。

 

大成建設の前身の「有限責任日本土木会社」や「合名会社大倉組」について

次に、現在の大成建設の前身である「有限責任日本土木会社」や「合名会社大倉組」について見てみましょう。

明治期の大倉組本社

明治期の大倉組本社

日本土木会社について

明治20年(1887年)3月大倉喜八郎、渋沢栄一、藤田伝三郎は、資本金200万円で有限責任日本土木会社を設立しました。そのため、日本土木会社は、取締役が大倉喜八郎、取締役社長が藤田伝三郎と渋沢栄一となっています。

左:大倉喜八郎 中:渋沢栄一 右:藤田伝三郎

左:大倉喜八郎 中:渋沢栄一 右:藤田伝三郎

しかし、この資本金を分け合い設立した有限責任日本土木会社は設立から5年8ヶ月で会社を解散しています。

これは明治政府が、明治25年の旧会計法の中で「国が当事者の一方となって行う私法上の契約、つまり工事および工事物件売買貸借が、原則として一般競争契約になる」ことを規定したためです。これまで中央官公庁、陸海軍が発注する工事の多くが、「発注者が業者を指定し、合格したものが工事を受注する」という「特例見積方式」からの変更でした。

「特別見積もり方式」で選ぶ日本土木、鹿島、清水といった大手は、政府からすると高度の技術で安定した成果が期待でき、納期も守られる利点もありましたが、新規事業者の参入が事実上不可能という理由から廃止されました。

一般競売契約では、収支の見積もりが立てづらいことが大企業であった日本土木会社にとっては重大な課題となってしまったようですね。

 

この時の当時の状況を後に、喜八郎から大倉土木組の後継に指名された大倉粂馬は以下のように語っています。

「政府は陸海軍の整備、拡張を急ぐがあまりに、日本土木会社を設立させたが、その組織が膨大に過ぎ(中略)このため日本土木会社はその声望においても、実力においても、当時の官界を威圧する観があって、それが官僚に忌諱されて、当初の目的を達することができず、ついには解散するに至った」

その後、大倉喜八郎は、自己責任による新会社として1893年に合名会社大倉組を発足させます。

 

日本土木会社の功績

このような事情はあったものの日本土木会社の功績は大きく、以下のような建築物が設計されています。

歌舞伎座

歌舞伎座は日本土木会社が設立した日本最初の大劇場です。設立当初の歌舞伎座は、木造三階建てのルネッサンス風の和洋の混合式の塗屋作りでした。1888年2月に着工、1889年11月に完工しました。

日本赤十字社病院

日本赤十字社病院

日本赤十字社病院は日本で病院として設計された最初の建物です。木造廟連が9練、手術室が1練、床は二重構造となり床の隙間から風が入らない配慮がされています。設計は赤坂離宮で有名な片山東熊です。1888年に着工しました。

工科大学本館

工科大学本館

工科大学本館は、明治初期の本格的洋風建築を代表する建物として1923年の関東大震災で倒壊するまで東京帝国大学本館として使用されました。建築家はジョサイア・コンドルの門下でもあった辰野金吾です。

 

大倉喜八郎まとめ

いかがだったでしょうか。明治期の戦争を起点に中堅財閥へとのし上がった大倉喜八郎の人生は、今の日本の実業家にも学ぶところは多くありそうですね。時代は違くても大倉喜八郎の行動力や先見性といった面は非常に勉強になります。文京つーしんでは皆様の役立つ情報を配信しておりますので引き続きよろしくお願いします。

 

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