東京都文京区にある湯島天満宮では、毎年秋から冬にかけての時期に文京菊まつりが開催されています。文京菊まつりでは、湯島天満宮に咲いている花というよりも様々なところから集められた菊が展示されているのにも関わらず何故文京区を代表する花まつりと呼ばれているのでしょうか。そこで今回は文京区と菊まつりについてまとめてみました。
湯島天満宮の文京菊まつりについて
湯島天満宮では、毎年春に「文京梅まつり」、秋に「文京菊まつり」が開催されています。
元々、湯島天満宮の場所は江戸時代から梅が有名だったことや、祀られている菅原道真が好んだ花ということもあり、湯島天満宮では昭和33年から梅まつりが開催されています。
一方、湯島天満宮の菊まつりは昭和54年度から開催されています。菊まつりでは初年度から菊の花壇のほかに菊人形の展示がされ、文京菊まつりの主要な出し物となっています。
菊と菊人形について
まずは、菊の特徴や日本での菊の位置付けについてみてみましょう。
菊は、キク科キク属の多年草で、日照時間が短くなると花芽を形成して花を咲かせる「短日植物」です。菊の花の開花時期は、一般的に9月から11月とされ、丈夫で寒さに強く、日持ちがして扱いやすいためさまざまな場面で用いられています。
一般的に菊が仏花のようなお供え用としてよく見るため縁起が良くないと感じる方もいますが、「菊を飾ると福が来る」「菊を生けると良い子に育つ」といわれ、本来は縁起の良い花とされています。また日本では昔から菊が天皇の御紋に使われるほど品格があり高貴な花とされています。
菊人形とは
菊人形は、頭や手足は人形、胴体や衣装を中小菊で現す等身大の人形を指します。
菊人形の起源は、江戸後期の文化9年(1812年)ごろに染井・巣鴨周辺で流行した動物や名所を菊で表現する「菊細工」にあります。
江戸時代の巣鴨・染井について
では、菊細工の起源となっている江戸時代の巣鴨・染井について少しみてみましょう。
今は東京23区に含まれる都市ですが、江戸時代の巣鴨や染井は都市としてそれほど発展しておらず周辺には田園地帯が広がっていました。
一方で、江戸の市内は「庭園都市」として大名庭園から町人たちの小庭園に至るまで多くの庭園がありました。その庭園の花木需要を賄うために、巣鴨・染井あるいは駒込といった当時の郊外の農家が庭園に供給する花木を栽培していました。
江戸時代に染井村として知られていた地域では多くの植木屋が軒を並べ、菊やツツジなどの花々を栽培していたとされています。特にオオシマザクラとエドヒガンの品種を改良してつくられたソメイヨシノは、昭和48年に「豊島区の木」に、昭和59年には「東京都の花」に指定されています。
また、巣鴨には、江戸の主要な幹線道路であった中山道が通っていることもあり、参勤交代の大名行列が通る時には近くの村から農作物を運んできては売り捌いたようです。
江戸時代の文京区周辺の様子について
では、江戸時代の文京区はどのような地域だったのでしょうか。
文京区民には馴染みのある大岡忠相の川柳に「本郷もかねやすまでが江戸のうち」と言われるように、本郷あたりまでは今で言う「都心」として栄えていたようです。そのため、江戸時代には現在の文京区でもまだそこまで発展していなかった地域があったことが窺えます。
文京区「千駄木」の地名の由来の一つには、「千駄(ものすごく大量)にも及ぶ木が茂っている」というものがあります。特に江戸初期には、「千駄木御林」と呼ばれる木々が、すぐ近くにある徳川家の菩提寺である上野の寛永寺で大量に使う木や護摩木を採取するために使われていました。
旧駒込林町(昭和40年まで)の旧町名案内板には、以下のような記載があります。
「上野の寛永寺創建の後、この林地を同寺の寺領とし、徳川家霊廟用の薪材をとらせた。延享3年(1746年)に開墾して畑とし、宅地を設け『御林跡』ととなえた。」
よって、江戸の後期には宅地が広がり、千駄木の団子坂付近でも少しずつ賑わいを見せていたことがわかります。
明治時代の千駄木・団子坂の移り変わり
このような経緯もあり、江戸の後期から明治時代にかけては団子坂周辺に多くの植木屋が集まりました。この様子は明治9年に発行された「東花植木師高名鏡」という植木屋の名前と住所をまとめた書簡に記されており、書簡には現在の文京区にあたる地名のかたが21名と東京府で最も多いことからもわかります。
団子坂での菊まつりと時代の変化
その後明治9年には、このような植木屋が集まり元々は神社仏閣の奉納物としてあった菊人形や菊細工から東京府に許可をとった上で入場料を取る形で団子坂で菊人形や菊の花壇の展示を開始します。こうした団子坂での菊の展示は明治40年ごろまで続き、現在でも当時の様子を絵や写真、著名な小説の中で知ることができます。
その後、需要の変化とともに次第に千駄木周辺の植木屋は数が減り、この菊の展示は昭和54年からは湯島天満宮での菊まつりへと移っていったことが窺えます。
現在の団子坂と団子坂菊まつりの名残
現在では、団子坂周辺は当時の面影は余り残っていませんが、団子坂で菊まつりが行われていた頃の名残として団子坂下にある菊見せんべい総本店があります。
菊見せんべい総本店
菊見せんべいは、文京区千駄木3丁目の団子坂下柳通り内にある煎餅屋です。創業明治8年の菊見せんべいは、団子坂にあった菊人形の展示に集まった人への手土産として誕生しました。四角いせんべいは誕生当時からも珍しがられており、当時は店先で煎餅を焼いているのが好評だったようです。
現在にも残る正方形の形とせんべいのしっかりした食べごたえは、森鴎外や高村光雲・光太郎も好んで食べていたようです。
その他、花屋については団子坂下から谷中霊園のほうに向かっていくといくつかみることができます。こちらは、仏花としての菊が主になりますが、菊の鮮やかな色は心を和ませますね。
「文京菊まつり」からみる文京区の歴史についてまとめ
いかがだったでしょうか。文京区内では、秋のシーズンでもあまり菊を見かけることはありませんが花まつりで見かけると冬の始まりの感じがします。お祭りのこういった歴史を知ると訪れた時に一段と楽しめそうですね。文京つーしんでは皆様の役にたつ情報を配信しておりますので引き続きよろしくお願いします。
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