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新紙幣から見る日本の顔。文京区と関係あり?

投稿日:2020/09/19by 

日本の紙幣には、夏目漱石や樋口一葉といった文京区の著名人が印刷されることが多く、偉人の知名度とともにおのずと彼らが活躍した地域の認知度も高くなっていきます。文京区では馴染みのある樋口一葉のデザインも2024年には新しくなってしまうので少しさびしいですね。今回はそんな新しくなるお金の人物についてどのような人物なのか、文京区と関連があるのかなどをまとめてみました。

2024年に発行される日本銀行券には誰が印刷される予定なの?

新しい紙幣の内容が発表されたのは2019年なので、既に知っている方も多いかもしれませんが、それぞれの額面と人物は以下の通りです。

 

1万円札 渋沢栄一(しぶさわ えいいち)

5千円札 津田梅子(つだ うめこ)

千円札 北里柴三郎(きたざと しばさぶろう)

では、それぞれどのような人物なのでしょうか。

 

「日本資本主義の父」渋沢栄一とはどんな人?

渋沢栄一は、1840年江戸の末期に、武蔵国(現在の埼玉県)の血洗島村(ちあらいじまむら)に生まれました。実家は、藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も行っている豪農と呼ばれる農家でした。そのため、幼い頃より商いへの関心があり、14歳の頃より買い付けなども行っていました。

商売に恵まれた家庭に生まれた栄一ですが、江戸時代には身分制度があり商売をする上で農家という身分上の不満も少なからずあったようです。このことは、当初栄一を倒幕派と呼ばれる江戸幕府を倒す思想へと向かわせました。この倒幕への目論見は、最終的には幕府からの弾圧や長州藩の縮小、家族の反対にあい挫折することとなります。

その後、幼いころからの知人を通じて幕府の徳川慶喜(よしのぶ)に仕えることとなり、24歳で「征夷大将軍を直接の主君として仕える武士」である幕臣(ばくしん)とよばれる地位まで上り詰めました。

倒幕派であった栄一が、幕府に使えるのは奇妙な気もしますが、農家という身分から政府の役人になったことは、江戸時代では珍しくその有能さが伺えますね。

慶喜の命を受けパリ万博の使節団としてパリに出向した栄一は、パリで定着していた「資本主義」に感銘を受け日本発展の鍵となると感じ日本に伝えようと考えました。

しかし、パリに一年半の滞在の後に、栄一が日本に帰った時には大政奉還が行われ慶喜は将軍ではなくなっており、時代は江戸から明治へと変わっていました。

そのため、栄一は独自に静岡で「商法会所」を設立しました。これがのちの株式会社の前身となっていきます。その後、商法会所を作った業績を大隈重信らに認められ、現在の大蔵省で働くことになります。

政府の役人として栄一は新しい日本の改革を目指し、貨幣を両から円へと変える、各地の藩を廃止し県とする廃藩置県を実施する、鉄道を敷くなどの大きな事業に関わりを持ちました。

最終的には、栄一は大蔵省を予算編成の対立で退所してしまうのですが、現代の日本の制度を作り上げた功績は学ぶものが多くありますね。

栄一が大蔵省を退所した後は実業家として活躍しました。実業家としての功績としては、現在最古とされる第一国立銀行(現みずほ銀行)の設立、東京ガス、東京海上火災、JR東日本の前身となる会社など約480の企業を設立、日本赤十字社、一橋大学や早稲田大学の前身となる学校の設立などの500超える社会事業へのかかわりがあります。

渋沢栄一の「私利を追わず公益を図る」ことを第一条件とする思想は、言葉通り現在の私たちの生活の基盤を作ることとなり、今でも多くの企業が一流企業として日本社会に根付いています。

 

「女子教育の先駆者」津田梅子ってどんな人?

津田梅子は、幕末の動乱の時代である1864年12月31日に江戸幕府に仕える武士の娘として生まれました。

1871年(明治4)12月、横浜を出港した欧米視察の「岩倉使節団」一行に加わり、最年少の6歳で親元を離れアメリカに渡ります。

11年の留学の後、梅子はアメリカから帰国し日本の女性の地位向上の必要性を痛感しました。その後、再度アメリカに渡り女子教育の基礎を再び学ぶこととなります。再帰国後は華族女学校他で教鞭をとるかたわら、デンバーで開催された万国婦人クラブ連合大会出席、ヘレン・ケラー訪問、ナイチンゲールとの会見など、多方面から多くの刺激を受けて、日本女性のための高等教育に力を尽くす決意を固めます。

1900年(明治33)、津田梅子はついに私立女子高等教育における先駆的機関のひとつである「女子英學塾(のちの津田塾大学)」を開校しました。

その功績が讃えられ、現在では日本における「女子教育の先駆者」と評価されています。

 

「日本細菌研究の先駆者」北里柴三郎ってどんな人?

北里柴三郎は、1853年1月29日江戸の末期に熊本県の阿蘇郡小国町に生まれました。

当時、現在は文京区の小石川植物園の離れに移された「東京医学校(現在の東京大学医学部)」で学び、200人ほどの入学生に対し、20人ほどしか卒業ができなかったために非常に優秀な人物であったとされています。

卒業後は、海外留学ができる内務省衛生局に就職し、ドイツで細菌学の先駆者であったコッホのもとで学ぶためドイツベルリン研究所に入りました。

コッホの元で明治22年破傷風菌の純粋培養に成功させると、翌年23年には破傷風免疫血清を完成さるなど多大な業績を残しました。6年間のドイツ留学ののち日本で伝染病撲滅のための研究所を作りました。この私立伝染病研究所は福沢諭吉の支援もありのちの野口英世をはじめとする志賀清、北島多一といった著名な人物を輩出することとなります。

現在でも北里柴三郎の功績は、北里大学北里研究病院として「心ある医療」を掲げ、患者様中心の全人的医療を実践されています。

 

新紙幣の人物の特徴

このようにみると、今度の紙幣となる人物は江戸の幕末ごろから明治時代に活躍した人物であることがわかりますね。さらに海外に渡りより新しい考え方を取り入れ、日本に広げていったことがうかがえます。新しい時代を作ったという点では、彼らの行動力には現代の政治や企業にとって学ぶところが多くありそうですね。

まとめ

いかがだったでしょうか。2024年からの紙幣では、文京区との関連は少なそうですが今まで紙幣になった人物と関わりの多いことがわかりますね。時代はキャッシュレスの方へと進んでいますが、このように偉人たちの功績に興味を持てるところも紙幣の良いところではないでしょうか。文京つーしんでは、皆様のお役に立つ情報を配信しておりますのでよろしくお願いいたします。

 

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