文京区は、文教の地区ということもあり多くの大学があります。それらの大学には特色や独自の歴史があり、多くの著名人物が関わっています。そこで、今回は大学の創立者であり内閣総理大臣にもなった桂太郎についてどのような人物なのかをまとめてみました。
桂太郎の出身や生い立ち
桂太郎は長門国阿武郡、現在の山口県萩市で1848年(弘化4年)に桂家の長男として生まれました。父である與一右衛門は「馬廻(うままわり)」と呼ばれる騎馬の武士で、武士の中でもエリートと呼ばれる役職でした。母は中谷喜代子であり、喜代子の叔父である中谷正亮は、吉田松陰が指導した松下村塾のスポンサーでした。
桂太郎は、12歳の時にはすでに長州藩の正規軍として「選鋒隊」に編入されており、武士として活躍していたそうです。
この辺りは、江戸時代特有の武士中心の時代背景が見えてきますね。
桂太郎はどのような人物?
それでは、桂太郎はどのような人物なのでしょうか。
明治維新後
1870年(明治3年)桂が当時22歳頃には3年間のドイツのベルリンに留学をしています。当時のドイツは軍事的にも進んでおり、桂太郎もプロシアの兵制などドイツ国内の軍事制度を学んだのち帰国します。
ドイツ留学を経て陸軍に入った桂は、長州藩の先輩・山形有朋(やまがた ありとも)の引きたてもあり、軍政をドイツ式に改める、軍制の改革を図り参謀本部の独立や鎮台の師団改編等を行うなどの軍事行政面での功績をあげ、順調に昇進していきました。
その後、日清戦争(明治27年から明治28年)では、名古屋の第三師団を率いて活躍し、戦後は台湾総督、陸軍大臣を経て総理大臣となりました。
総理大臣となる前年の1900年(明治33年)には、台湾協会会頭として台湾協会学校(後の拓殖大学)を創立して初代校長に就任、以後12年間にわたり学校の基礎をつくりました。また、医学会でも初代癌研究所会長に就任し、医学の発展に貢献しています。
その後、1901年に総理大臣となってからは日露戦争(1904年)を勝利に導いたといった軍事的な面での功績があります。
なぜ桂太郎が内閣総理大臣になれたのか。
では、武士であった桂太郎が、明治という開国の時代に内閣総理大臣になれたのでしょうか。
まず、明治時代の内閣総理大臣を見てみましょう。
明治時代の内閣総理大臣
明治時代の総理大臣には、伊藤博文、黒田清隆、山形有朋(やまがたありとも)、松方正義、大熊重信、桂太郎、西園寺公望(さいおんじきんもち)の7人がいます。
明治時代は1868〜1912年の43年間になります。そのため、一人当たりの任期が6年位と思いますが、初代内閣総理大臣から14代内閣総理大臣までおり、初代伊藤博文は4回、そのほかの人も平均2回くらいは再度内閣総理大臣に就任しています。
桂太郎が内閣総理大臣に任命されるきっかけ
それでは、桂太郎が内閣総理大臣に任命されたきっかけを見ていきましょう。
桂太郎が内閣総理大臣に任命されるきっかけには、桂太郎が陸軍であげた功績の他にも多くの理由あります。
例えば、第3代・第9代内閣総理大臣となった長州藩の先輩である山形有朋(やまがたありとも)の引き立てや、吉田松陰の門下生であり初代・第5代・第7代・第10代内閣総理大臣の伊藤博文との繋がりといった人事的理由、長州藩の武士の出身であったことや「明治維新」といった時代背景など様々な理由があります。
伊藤博文、山形有朋の関係
共に内閣総理大臣となった伊藤博文と山形有朋はどのような関係なのでしょうか。
伊藤博文と山形有朋は、同じ長州藩の実力者として桂太郎の先輩にあたります。この2人は明治維新のときから伊藤博文は国際交流の面で、山形有朋は軍事の面で国に尽くしてきたという功績がありました。
長州藩の先輩であり第3代・第9代内閣総理大臣の山形有朋は、伊藤博文が2回目の内閣就任(第5代内閣)であるときの閣僚として起用されています。また、山形有朋は第9代内閣の際に伊藤博文が立憲政友会を発足させたのを機に、伊藤に政権を譲って政界を退きました。
この辺りは長州藩の同志ということもあり、伊藤博文と山形有朋の間には強い信頼関係が見えますね。
桂太郎と政界
当初桂太郎が初めて政界に入ることとなったのは、山形有朋が第9代内閣のときに閣僚として起用された時であると言われています。山形有朋は、伊藤博文に内閣総理大臣を引き継いだあとも、元老として長州藩の後輩である桂太郎を11代目総理大臣の座に据えるなど多大な引き立てを行いました。
明治時代には多くの長州藩の出身の人物たちが政治の新しい基盤をつくっていったことが見受けられます。特に明治時代の後半には顕著に現れていたようです。
実際には明治時代の第9代目以降の内閣総理大臣は以下のようになっています。
第9代内閣総理大臣 山形有朋(期間:1898.11.8~1900.10.19)
第10代内閣総理大臣 伊藤博文(期間:1900.10.19~1901.5.10)
第11代内閣総理大臣 桂太郎(期間:1901.6.2~1906/1/7)
第12代内閣総理大臣 西園寺公望(所属:立憲政友会)(期間:1906.1.7~1908.7.14)
第13代内閣総理大臣 桂太郎(期間:1908.7.14~1911.8.30)
第14代内閣総理大臣 西園寺公望(所属:立憲政友会)(期間:1911.8.30~1912.12.21)
第15代内閣総理大臣 桂太郎(期間-大正:1912.12.21~1913.2.20)
このようにみると、明治時代の後半は長州藩や伊藤博文の作った立憲政友会の独壇場ということがわかりますね。大正時代では、この藩閥政治が時代遅れとなり、民主主義を旨とする「大正政変」や「大正デモクラシー」へとつながっていくのですが、明治時代には非常に権力を蓄えていたいたことがわかります。
現代の話題
近年は、安倍元総理が総理大臣の通算在日日数で桂太郎と並ぶといった任期の面で取り上げれ話題になりました。それ以外にも、拓殖大学の第12代総長を勤められた後、第71から第73代目の総理大臣として長期政権を築き上げた故中曽根元総理の合同葬儀を国費でやるかどうかで取り上げられていましたね。
まとめ
日本国内から海外へと時代の変革期であった明治時代の時代情勢や政治を見ていくと、現代に通じる様々な制度や組織が作られてきたことがわかります。また、現代では時代の変化とともに合わなくなってきた制度の本来の目的を知るきっかけにも繋がるのではないでしょうか。まさにこれは、温故知新「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」ですね。文京つーしんでは、この他にも皆様の役に立つ情報を配信しておりますのでよろしお願いします。
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