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三菱資料館にある三菱グループ創始者の岩崎弥太郎ってどんな人?

投稿日:2020/10/10by 

文京区湯島ある三菱資料館では、岩崎弥太郎にはじまる三菱の歴史に関する展示物を見ることができます。戦前にあった三井本社、三菱本社、住友本社、安田保善社の財閥という組織については現在ではあまり馴染みのないものとなってしまいました。では、三菱財閥を作り上げた岩崎弥太郎とはどのような人物なのでしょうか。

 

岩崎弥太郎の生い立ち

岩崎弥太郎は、1835年に土佐国安芸郡(現在の高知県安芸市)に生まれました。

家柄は武士の中でも身分が低い地下浪人(じげろうにん)と呼ばれる身分で、苗字や帯刀は許されているものの役職はなくほぼ農民と変わらない身分でした。一方で、弥太郎の実家は身分こそ低かったのものの田畑や山林を所有していたため食べ物や着るものに困るほど貧しいというわけではなかったようです。

江戸時代には、士農工商という武士中心の身分制度だけでなく、武士の中でも上級武士と下級武士、さらに低い身分と分かれていました。岩崎弥太郎は、曾祖父の代に郷士(ごうし)と呼ばれる下級武士に属した人々の身分を売ってしまったため下級武士よりも低い地下浪人という身分だったようです。

 

岩崎弥太郎はどのような人物?

それでは、岩崎弥太郎はどのような人物なのでしょうか。

岩崎弥太郎と江戸との出会い、帰国

1854年(安政元年)弥太郎は20歳の時に江戸に出てきて、昌平坂学問所の教授であった安積良斎という江戸有数の学者の塾に入り教えを受けることになります。

しかし、1855年(安政2年)には、父親が酒の席で村役人との借金がらみの喧嘩により投獄されたのを知り、江戸より帰国することとなりました。この事件で父親を庇って役人を非難してしまったことで弥太郎も投獄されてしまいます。

少し可哀想な気もしますが、この時の村役人の非難の仕方がまずかったようで「不正を罷り通すがが奉行所かよ」と訴え、壁に墨で「官は賄賂をもってなり、獄は愛憎によって決す」と大書したため投獄されてしまったようです。

 

釈放から班の実力者の側近へ

投獄された翌年1856年には釈放され、吉田東洋の門下生となります。

吉田東洋は、班の実力者である山内容堂の側近でした。ここで吉田東洋の甥の後藤象二郎と学ぶことでのちの明治政府との繋がりも作っていきました。

後藤象二郎は後に、岩崎弥太郎と坂本龍馬を引き合わせた人物となります。

1860年には吉田東洋の推薦で長崎に派遣されますが仕事を放り投げて帰国します。そのため、役職を辞めさせられてしまいますが、その後に吉田東洋の暗殺が行われ、藩の命令で犯人の探索を命じられ京都に行くことになります。しかし、同じく京都にいった井上佐四郎も暗殺されるという事態になり、薩摩へ帰国します。

今では、あまり考えられませんがこのような暗殺が行われるのも常に帯刀が許されている武士社会の特徴なのでしょうね。

 

岩崎弥太郎の「士族の商法」

当時江戸時代は、士農工商で武士の身分が高かった時代であったため、武士が身分の低くなる商売人に職業を変えることは余りありませんでした。

しかし、弥太郎は、貿易で賑わう長崎での調査の経験などから商業者としての道を進むことを決めます。当然、武士である弥太郎の事業がすぐに成功するはずもなく大阪では材木商の事業を失敗をしています。その後、土佐に帰って農事に精を出し資金がたまると、本来の実家の武士の身分であった郷土株を買い戻し、同じ郷土の身分の高芝重春の次女と結婚しました。

 

岩崎弥太郎と坂本龍馬

1867年に弥太郎は、吉田東洋の門下生であった福岡藤次に同行を求められ長崎にいきます。その頃土佐藩は、開成館長崎商会を窓口に、欧米商人から船舶や武器を輸入したり、木材並びに強心剤・防腐剤として使用されていた樟脳、鰹節など藩物産を販売していました。そこで、1865年から藩命により貿易に従事していた土佐藩の後藤象二郎は弥太郎に主任を命じ、当時海援隊の資金繰りに困っていた坂本龍馬を紹介しました。

 

龍馬との出会いは、弥太郎に大きな衝撃を受けさせるものでした。その頃には弥太郎は職業を商売重視へと切り替えてはいましたが、それは薩摩藩の組織の枠を出ないものでした。しかし、脱藩した坂本龍馬の亀山社中は薩摩藩の後ろ盾はあるのものの世界を相手に商売をしていたため非常に衝撃をうけ、後の三菱の設立へとつながっていくものとなりました。

様々な藩の役職に就くも途中で投げだすことが多い弥太郎ですが、龍馬との関係を深めていくうえで倒幕というよりも商売のほうに関心を向けたのは、自分で事業をやりたい、大きな会社を作りたいという気持ちが見受けられますね。

 

後藤象二郎と坂本龍馬

左:後藤象二郎 右:坂本龍馬

では、岩崎弥太郎に坂本龍馬を紹介した後藤象二郎と坂本龍馬の関係はどのようなものだったのでしょうか。

坂本龍馬は後藤象二郎や岩崎弥太郎と同じく、元は土佐藩の出身でした。1865年9月、龍馬は土佐藩を脱藩し薩摩藩の援助を得て長崎の亀山において亀山社中を結成しました。亀山社中は、グラバー商会と銃器の取引を開始し土佐藩にも銃器などを卸しはじめます。さらに坂本龍馬は、この銃器の輸入により軍事力をつけることで険悪であった薩摩と長州の関係を修復を仲介しました。これらの功績を認められ坂本龍馬は土佐藩脱藩の罪を許され「亀山社中」が「海援隊」として土佐藩の外郭機関となります。

 

後藤象二郎は、1866年に藩命を受け薩摩、長崎に出張し上海を視察して海外貿易を研究するなどを行います。この頃に海外貿易を行なっていた「亀山社中」や坂本龍馬と知り合うことになりました。

元々、岩崎弥太郎と後藤象二郎は吉田東洋の門下生であったため時代が三人を引き合わせたとも言えますね。

 

軍事力と江戸幕府

この外交により飛躍的に増大した土佐藩の軍事力はどのような力を見せたのでしょうか。

1867年(慶應3年)土佐藩は将軍・徳川慶喜に対し大政奉還論を提議します。それを受け、幕府側は、10月14日に政権を明治天皇へ返上します。

今まで江戸時代という武士の時代であったものが、海外からの銃器の輸入により権力が転覆されるといったことが実際に行われたのがみてとれます。

龍馬暗殺と海援隊

土佐藩は幕府に大政奉還をさせるといった目的は達成しましたが、坂本龍馬が1867年12月10日に京都で暗殺されてしまいます。

1868年の1月には徳川家康の大政奉還を受け、明治天皇より「王政復古の大号令」が発せられ、江戸幕府が廃止され明治政府が誕生します。

その後海援隊は、後藤象二郎によって「土佐商会」として改名され、岩崎弥太郎が九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社・三菱商事などに発展させました。

 

その後の三菱、岩崎弥太郎、三菱と政府の繋がり

三菱は海援隊を取り込んだ後に造船の運輸業の爆進的な成長をみせ、商人の態度として社員にも武士時代の横暴な態度を改めさせ商人として歩みを進めていくこととなります。その甲斐もあり業界2位へと躍進した三菱商会は、1874年には東京の茅場町に進出し社名を「三菱蒸気船会社」と改名しました。

その後は、政府からの要請として台湾出兵を行うことや外国資本と競争に勝つことなどから政府との繋がりも増えていくこととなります。

また、人事的な面からも弥太郎の娘婿の加藤高明(第24代内閣総理大臣)と幣原喜重郎(第44代内閣総理大臣)が首相となったことからも、政界との結びつきも強め財閥として発展していくこととなります。

 

三菱グループ現在

その後、第二次世界大戦のアメリカを含む連合国は、日本の「財閥」が軍国主義を制度的に支援したという認識があったため、三井本社、三菱本社、住友本社、安田保善社といった持株会社を解散しました。

現在では、三菱グループは三菱重工業、三菱商事、三菱UFJ銀行の御三家を中心に日本のインフラや雇用を支えています。

 

まとめ

いかがだったでしょうか。今回は三菱グループ創立者である岩崎弥太郎を中心に三菱グループの創立についてまとめてみました。土佐藩同士の同じ志をともにする人物たちの維新後の日本を変革させようとする熱い熱意伝わってきます。また、現代でも一つの時代を作り上げてきた企業として身近だからこそ多くを学ぶことがありますね。文京つーしんでは皆様の役に立つ情報を配信しておりますので、よろしくお願いします。

 

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記事関連情報について

三菱資料館
東京都文京区湯島4丁目にある三菱資料館になります。

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