文京区には後楽園があり、水戸光圀公は水戸黄門として有名です。水戸黄門ではその権威を示すために「家紋」が用いらていますが、家紋は現代の生活ではあまり馴染みのないものとなっています。そこで今回は水戸徳川家の家紋を中心にその内容や役割はどのようなものだったのかをまとめてみました。
家紋とは?
家紋とは、古くから自らの家系、血統、家柄、地位を表すために用いられた紋のことを指します。江戸時代以前にも武士同士の戦いの目印用いられたり、紋章のつけた衣服のことを礼服と呼んでいました。時代劇などで目にする「肩衣」は家紋が非常に目立つ着物となっていますね。
家紋の役割とは
では、家紋にはどのような役割があったのでしょうか。
戦における家紋の役割
武家社会に置いて家紋が広がる理由は「戦」にまつわる合理的な理由からとなっています。大人数が戦う戦では、敵と味方の区別をつける必要があったためその目印として家紋が広がって行きました。当初は紅白のような色だけで区別していたものが、武将の正確な位置がわからないことや、色だけでは敵に利用されてしまうなどの理由から旗や陣幕に家紋をつけるようになりました。
家紋も当初は、戦の中で目印や記号のような原始的な役割として用いられることが多かったようですね。
大名行列制度の取り入れ
この家紋は、時代とともに制度の中でも重要な役割を担うことになります。その一つが江戸時代の「参勤交代」です。
ご存知の通り「参勤交代」は、諸大名が江戸を訪れる制度となっています。参勤交代では、諸大名が江戸に来る時や登城をする際に誰なのかを知る必要があり、そこで家紋が活用されます。参勤交代では、一行の衣服や籠等には家紋があしらわれ、家紋から一目で誰なのか見分けられるようにしていました。この時代には、家格により礼儀作法が異なったようで参勤交代の途中の道で遭遇した場合に失礼な対応をしないよう予め家紋を知っておく必要がありました。そのため家臣や大名行列の先頭には必ずといっていいほど諸大名の家紋を熟知したものが配置されていたといわれています。
下座見役という役人
幕府では、大手門に下座見役(げさみやく)という「家紋から大名や役人を識別する人物」を配置していました。当時の役人にとっては、諸大名の家紋に精通していることは公務上必要なスキルであったことが伺えます。
江戸時代は、現代とは異なり全ての人が文字を読めるわけではありませんでした。そのため、家紋を用いることで文字の読めない庶民でも家柄やその権威を識別できるため、権威の象徴として示すには合理的なものとして用いられていたようですね。
徳川家の家紋のルーツとは?
天下をとった徳川家康は、当時の天皇から権威ある家紋である「菊桐紋(きくきりもん)」をもらうことを辞退しました。その代わりに「葵紋(あおいもん)」を独占することで徳川家の権限を高めていきます。
徳川家の家紋に施される葵とは
葵とはアオイ科の植物の総称で、家紋としてはフタバアオイやミズアオイを図案化して用いられることが多くあります。
現在二葉葵を御神紋としている、京都の上賀茂神社では「葵」は古くから「あふひ」と読み、「ひ」は「神霊」を意味し、葵とは「神と逢うこと」であり、「逢う日」でもあるとしています。
なぜ徳川家の家紋が葵紋となったのか。
実をいうと徳川家の祖先である「新田氏」の家紋は「葵紋」ではありません。徳川の祖先と言われている新田氏は本来「一つ引両(ひとつひきりょう)」か「大中黒(おおなかぐろ)」の家紋を用いています。
通常、徳川家康は征夷大将軍となったので「祖先の家紋」を継ぐのが妥当かと思われます。では、なぜ徳川家の家紋として「葵紋」が使われるようになったのでしょうか。
「葵紋」と徳川家康の生い立ち
当時、「葵紋」は新田氏の一門である三河国(現在の愛知県)の松平氏・本田氏・伊奈氏・島田氏が戦国時代前期から用いていました。
徳川家康の生い立ちをみてみると、この三河国の松平氏の松平広忠の長男として生まれ「松平竹千代」という幼名が与えられています。成人した旧称は松平元康(もとやす)となっています。松平元康は、今川氏から独立した1563年に松平家康に改名、さらに三河国氏となった1566年ごろに朝廷からの命令により新田郡徳川郷の得川氏の末裔として得川(後の徳川)を名乗るようになります。
そのため徳川家康が征夷大将軍となった際に「得川氏」の源流である新田氏の家紋を使う場合は「一つ引両」か「大中黒」の家紋を家紋とする必要があります。しかし、家康は生まれの「松平氏」の家紋である「葵紋」を徳川の家紋として使うことを選びます。
この家康の家紋選びは江戸の歴史をみる上では、なかなかわかりづらいですが生まれの家紋を用いるところに家康の人柄がでているとも言えそうですね。
徳川家の家紋
では、徳川家の家紋をみてみましょう。
このように徳川家の家紋をみてみると、源流である新田氏の「一つ引両」の円と松平氏の「葵」が見事に組み合わさっているのがわかります。多くの人が目にしている家紋でもその起源をみてみると非常に深いものがあるのがわかりますね。
徳川家の御三家や御三卿の家紋とは?
徳川一門の家紋は、それぞれの将軍や御三家などによって少しずつ異なっているようです。しかし、徳川家が「葵」を使用した紋の使用を厳しく禁じたこともあり、現代では同じ家紋とされて紹介されているものでも異なる家紋が出ているなどあまり正確な家紋の描写は残っていないようです。
現代でどのようなところで家紋が使われているの?
では、現代ではどのようなところでこれらの家紋がみられるのでしょうか。
現在は、皇居の江戸城の同心番所には徳川家の家紋が残っています。
このように現代まで江戸の文化が建物の細部に残っているのをみると感慨深いですね。特に皇居は徳川家の家紋だけでなく天皇家の「菊花紋章(きくかもんしょう)」もあり、現代につながる歴史や伝統の一部を知ることができます。
また、文京区の後楽園でも、入り口の提灯などに徳川家の家紋をみることができますので訪れた際には見てみてください。
まとめ
いかがだったでしょうか。文字の読み書きの能力がそれほど広まっていない時代だから必要とされる家紋には、その家系や権力を示す工夫が凝らされていて面白いですね。文京つーしんではこの他にも皆様の役にたつ情報を配信しておりますのでよろしくお願いします。
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