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徳川光圀が作ろうとした水戸徳川家の一大事業「大日本史」とは?文京区と徳川家④

投稿日:2021/03/13by 
徳川光圀が作ろうとした水戸徳川家の一大事業「大日本史」とは?文京区と徳川家④

文京区の小石川後楽園は水戸徳川家の江戸の上屋敷に作られた日本庭園となっています。小石川後楽園は、水戸藩初代藩主の徳川頼房が屋敷内に築き、「水戸黄門」で知られる2代藩主の光圀が完成させました。今回は、水戸黄門の起源とも言われる徳川光圀が編集を命じた「大日本史」についてまとめてみました。

 

水戸徳川家の徳川光圀はなにをしたのか

明暦3年(1657年)に徳川光圀は「大日本史」の編集を水戸藩に命じました。
これにより水戸藩は、「大日本史」の編纂を史局である彰考館(しょうこうかん)を設けて着手することになります。

水戸彰考館

彰考館

徳川光圀と水戸の歴史学

徳川光圀は、全国的な資料調査を実施しただけでなく、署名の代わりに使用される記号・符号である「花押(かおう)」を「花押藪(かおうそう)」としてまとめたり、書体の辞典である「草露貫珠」なども編集し、史料を求めるだけでなく正確に読むことを重視しました。

そのため、水戸は歴史学において高い水準を維持していたとされています。

 

水戸徳川家「大日本史」の編集の内容

「大日本史」の編集は、史局員の儒学者らを資料収集のために日本各地に派遣し、日本中から学者をあつめ全国の神社や寺にある様々な文書をまとめました。

大日本史イメージ

大日本史の特色

大日本史の特色としては以下の3点があげられます。

1. 神功皇后を皇后伝に列した。
2. 大友皇子を帝紀に列した。
3. 南朝正統論を唱えた。

儒学的正統論では、道徳的血統的な正しさが重視されるため北朝正統論が重視されます。しかし、「大日本史」の編集を命じた徳川光圀は、後醍醐天皇が率先して朝廷の権力回復運動を実践したために武家中心の思想を重視しました。

この南朝正統論は、天皇主権から主君に対する絶対的な忠誠を誓う「武士」の思想に基づく思想として、日本史の歴史と文化に大きな影響を与えています。そのため、光圀の意向を含み「大日本史」は平安中期から江戸にかけての歴史書であると同時に、武家政権が成立するまでの記録とされることもあります。

 

なぜ日本史の編集が必要だったか。

当時日本史は、日本書紀から日本三大実録である六国史までしかありませんでした。六国史は、「日本書紀」「続日本紀」「日本後記」「続日本後記」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」となっています。これらは、国家事業としてまとめられ飛鳥時代から平安時代前期の歴史について書かれたもので、当時はそれ以降の歴史書はありませんでした。

また、平安初期以降の歴史書がつくられなかった背景として、鎌倉時代におこる鎌倉幕府と朝廷の公武二重権力や、その後の南北朝時代といった時代では正統な国史を記述する難しさがあります。そのため、日本の正しい歴史を記録する上で、正しいものと間違っているものを分けるために大日本史の編集が必要とされました。

 

大日本史に関わった人々

大日本史に関わった人物として、「水戸黄門」の黄門様の側近である「助さん」「角さん」のモデルとなった人物がいます。

佐々宗淳(さっき むねきよ)

佐々宗淳は、「水戸黄門」佐々木助三郎(ささき すけさぶろう)「助さん」のモデルとなった人物です。佐々宗淳は、史料の調査収集のため全国をめぐりました。元禄(げんろく)元年に彰考館総裁となるほど優秀な人物であったようです。

安積澹泊 (あさか たんぱく)

安積澹泊

安積澹泊

安積澹泊は、「水戸黄門」の渥美 格之進(あつみ かくのしん)「角さん」のモデルとなった人物です。安積澹泊は主に、資料の精査と随筆を担当しました。元禄9年(1692年)には、彰考館総裁となって「大日本史」の編纂(へんさん)に主導的役割を果たしました。

この二人は彰考館の同僚であり、佐々宗淳のほうが16歳年上だったようですが、お互い彰考館総裁となるなど優秀な人物であったことがわかりますね。

 

大日本史の歴史

徳川光圀によって始められた「大日本史」の編集作業は、元禄13年(1700年)の光圀死亡後も安積澹泊(あさかたんぱく)を中心として続けられました。

本編とも言える「伝記集」の紀伝は正徳5年(1715年)に完成します。幕府への献上は、享保5年(1720年)に実現しましたが、朝廷への献上は当時の朝廷が北朝の子孫であったこともあり実現しませんでした。

その後、安積澹泊が元文2年(1737年)に死去すると「大日本史」の編集は完全に中断してしまいます。

 

「大日本史」の朝廷献上と継続

「大日本史」は、天明6年(1786)年に立原翠軒(たちはらすいけん)が総裁に登用され再開します。

立原翠軒は、当時朝廷派であった藤田幽谷(ふじたゆうこく)を起用し朝廷への献上を目指しますが、尊王派からの度重なる修正や反対にあり南朝正統とする大日本史の総裁の座から失脚します。

その後「大日本史」は、朝廷献上を目標に、藤田幽谷や藤田派とよばれる天皇を中心とした尊王派によって編集され、文化7年(1810年)26巻を朝廷に献上されることとなりました。

左:立原翠軒 右:藤田幽谷

左:立原翠軒 右:藤田幽谷

立原翠軒は、光圀の没後100年には「大日本史」を献上したかったようですが、なかなか北朝の朝廷との折り合いがつけるのが難しかったようです。立原翠軒と藤田幽谷は幕府派と朝廷派ということで最終的には仲違いをしてしまうことになりました。

その後も、大日本史は編集を重ね、全402巻の大日本史が完成したのは250年後の明治36年(1969年)となっています。

 

水戸徳川家と「大日本史」の影響

「大日本史」は歴史書としての価値もありますが、当時の徳川水戸藩の思想である「水戸学」にも大きな影響を与えることとなりました。「尊王敬幕(そんのうけいばく)」の思想であった「前期水戸学」から「より強力な尊王と攘夷」へと移り変わり日本史が動いていくこととなります。

さらに、水戸藩は光圀の時代から財政は慢性的な破綻状態にあり、財政の安定のために強力な年貢増徴政策や大飢饉なども起こり小さな一揆が頻発していました。幕府の厳しい年貢のとりたてへの不満や諸外国からの侵入を許してしまうことへの不信感、農民や商人にとっては直接的な影響のある飢饉などから、幕府への不審を募らせ尊王攘夷運動として幕末へと向かっていくことになります。

 

まとめ

いかがだったでしょうか。今回は徳川光圀が命じた大日本史についてまとめてみました。この「大日本史」と水戸徳川家の深いつながりは幕末の江戸をみる上でも重要な視点になりそうですね。文京つーしんでは、皆様の役に立つ情報を配信しておりますのでよろしくお願いします。

 

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