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伝通院からみる徳川家と宗教について。文京区と徳川家⑤

投稿日:2021/04/03by 
伝通院からみる徳川家と宗教について。文京区と徳川家⑤

文京区には、小石川後楽園を初め徳川家ゆかりの地が多数あります。伝通院も徳川家に関する歴史が深く刻まれているのスポットのひとつとなっています。そこで今回は、浄土宗の寺院である伝通院と徳川家の関係についてまとめてみました。

 

伝通院ってどんなところ?宗教や宗派、起源について

伝通院は、1415年に浄土宗第七祖了誉である聖冏(しょうげい)が開山したお寺で、宗旨は浄土宗(開祖法然上人)となっています。正式名称は無量山傳通院寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)です。

聖冏上人

当初は「無量山寿経寺(むりょうざん・じゅきょうじ)」として建立しましたが、徳川家康の生母である「於大の方(おだいのかた)」が埋葬される際の法名が「傳通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼」であったことから伝通院と名付けられました。

尾張国の「於大の方」が江戸に埋葬された理由としては、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利した際、息子が作った泰平の世を近くで見守りたいという親心から江戸埋葬を遺言に残したことにあります。その際、家康の助言者でもあった浄土宗の観智国師が「浄土宗の祖」である聖冏上人の遺跡を勧め、「於大の方」の法名がつけられました。

伝通院の墓地の北側には、徳川家の広大な墓域が残されています。ここには、徳川家康の生母である「於大の方(おだいのかた)」や「千姫」をはじめとした徳川家ゆかりの墓所があります。

左:於大の方 右:千姫

左:於大の方 右:千姫

伝通院の墓所は、明治以降に一般開放され一般の方も埋葬できるようになりました。現在では寺院や墓所だけでなく、春には桜、夏には朝顔市などでも人気があります。

 

伝通院はどこにあるの?住所や行き方最寄駅・バス停

伝通院の住所は、東京都文京区小石川3丁目14−6になります。

茗荷谷駅と後楽園駅・春日駅、飯田橋駅が最寄駅としてありますが、どの駅からも中間地点のような位置にあるため徒歩で15分程度かかります。徒歩で行く際は春日通り沿いの富坂警察署を一つの目印とすると分かりやすいかと思います。

 

伝通院の最寄駅

都営三田線・都営大江戸線「春日駅」徒歩15分

東京メトロ丸の内線・南北線「後楽園駅」徒歩15分

東京メトロ丸の内線「茗荷谷駅」徒歩18分

都営大江戸線他「飯田橋駅」徒歩18分

都営バス

「伝通院前」下車徒歩「3分」

 

なぜ徳川家康は伝通院と密接な関わりがあるの?

徳川家康は浄土宗の観智国師だけでなく、天台宗の天海、臨済宗の金地院といった多くの僧侶と親密な関係をもち、寺院や宗教に関することだけでなく政治的な助言も受けていました。これは、先代の織田信長や豊臣秀吉とは対照的です。

では、何故徳川家康はこのように宗教との繋がりを深めていったのでしょうか。

理由① 織田信長と豊臣秀吉の寺院や宗教団体との対立

徳川家康が仕えた織田信長と豊臣秀吉は、互いに寺院や宗教団体と対立を頻繁に起こしています。

織田信長は、天台宗の発祥の地である比叡山の寺院を焼き討ちにし、浄土真宗の本山である石山本願寺と壮絶な戦いを繰り返しました。

また、豊臣秀吉も浄土真宗の門徒による全国の一向一揆の鎮圧に困惑し続けました。

そのため、徳川家康は天下平定のためには、寺院や仏教信者との対立を避けることが必須と考え、寺院や宗教団体と親密な関係を築いたと考えられています。

理由② キリスト教の弾圧のため

徳川家康は、キリスト教弾圧の手がかりとして寺院や仏教信者を抑える仕組みを考えました。こうしてできたのが、寺請制度(てらうけせいど)、諸宗寺院法度(しょしゅうじいんはっと)、寺社奉公(じしゃぶぎょう)という仕組みです。

寺請制度(てらうけせいど)

寺請制度は、江戸幕府が宗教統制の一環として設けた制度です。寺請証文を受けることを民衆に義務付け、キリシタンではないことを寺院に証明させる制度です。

諸宗寺院法度(しょしゅうじいんはっと)

諸宗寺院法度は、江戸幕府が仏教の諸宗派・寺院・僧侶の統制を目的として出された法令です。この法度はほぼ同時に出された神社・神職を対象として出された諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)とも関連性が強く、更に両法度とも前年に実施された寛文印知による寺領・社領の安堵と引換に出されたものです。これによって幕藩体制下で望まれる寺院・僧侶のあるべき姿を提示するとともに、これが幕府の寺院・僧侶の統制政策の基本となっていくことになります。

寺社奉行(じしゃぶぎょう)

寺社奉行は、諸藩における職制の1つで、宗教行政機関のことです。寺社の領地・建物・僧侶・神官のことを担当した武家の職名であり、江戸幕府では将軍直属で三奉行の最上位に位置しています。

 

このような宗教政策は260年続く徳川幕府の礎として働くこととなりました。

 

増上寺は「徳川家の男寺」、伝通院は「徳川家の女寺」

「伝通院」と対をなしている浄土宗のお寺に「増上寺」があります。江戸時代には、江戸城を中心に南側に「増上寺」、北西に「伝通院」として位置していました。

この「増上寺」と「伝通院」は、徳川家の先祖の位牌を納めてあるお寺「菩提寺(ぼだいじ)」であると同時に、僧侶の学問所である「檀林(だんりん)」のお寺となっています。

徳川家の「男寺」増上寺とは?

増上寺

江戸城の南側に置かれた「増上寺」は、家康の依頼を受け観智国師が浄土宗と共に大きく発展させたお寺になります。増上寺は、寛永寺と分け合うように歴代の将軍が埋葬されたため「徳川家の男寺」と呼ばれるようになりました。

現在の増上寺は東京都港区芝公園4丁目にあり、徳川将軍15代のうち、秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂の六人が葬られています。

徳川家の「女寺」伝通院

伝通院には、今でも墓地の一角に徳川家墓所が残っており、二代将軍秀忠の娘・千姫、家光の正室・孝子の方、三代将軍家光の次男・亀松君や徳川家の女性たちや幼くして亡くなった年少者たちが埋葬されています。

伝通院は女性や幼い子どもが埋葬されていることから「徳川家の女寺」として呼ばれるようになりました。

於大の方の墓所

於大の方墓所

僧侶の学問所「関東十八檀林(だんりん)」

「増上寺」と「伝通院」は、檀林と呼ばれる弟子の僧侶が師匠のもとに集まって勉強をする学校のような寺院の一つです。「増上寺」「伝通院」の二つの寺院は、「関東十八檀林」の中でも代々の住職が紫の衣を纏える「紫衣檀林」という特別に格式の高い檀林となっています。紫衣を許されたのは、京都では知恩院、知恩寺、金戒光明寺、清浄華院の四箇本山、檀林では芝増上寺、小石川伝通院、鎌倉光明寺、瓜連常福寺、飯沼弘経寺、新田大光院、深川霊巌寺の7か寺、そのほか、由緒寺院や幕府と関係のある寺院でした。中でも増上寺は三枚紫衣、伝通院、光明寺には二枚紫衣が許されていました。

徳川家の菩提寺としてだけでなく、浄土宗の僧侶を目指すものにとっては憧れのお寺であったことが分かりますね。

 

伝通院まとめ

いかがだったでしょうか。伝通院の境内も美しいことながら、歴史や由緒のある寺院としても多くのことを学べますね。文京つーしんでは、この他にも皆様の役に立つ情報を配信しておりますのでよろしくお願いします。

 

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