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竹久夢二美術館に美人画が展示されている竹久夢二ってどんな人?

投稿日:2021/07/30by 
竹久夢二美術館に美人画が展示されている竹久夢二ってどんな人?

文京区弥生にある竹久夢二美術館では、多数の美人画を制作し”大正の浮世絵師”と呼ばれた竹久夢二の力作が展示されています。彼ならではの美学で描かれた夢二式美人画は大正ロマンを体現した物として、現代に至るまで美術業界に大きな影響を与え続けてきました。

今回はそんな竹久夢二についてどのような人物だったのかを解説していきます。

 

竹久夢二の生い立ち

竹久夢二は1884年9月16日に岡山県邑久郡本庄村にて竹久家の次男、茂次郎(もじろう)として生まれました。 生家は代々酒造事業を手掛けている家系で、竹久夢二は既に他界していた兄に代わって長男として育てられていたようです。

夢二は、中学校を家庭の都合で中退したり、家出をして学費を稼ぎながら学校に通うなど18歳で早稲田実業学校に入学するまでの生活はあまり穏やかなものではありませんでした。

 

竹久夢二による作家活動の始まり

竹久夢二は18歳(1902年)の頃から風景画などの素描を新聞に投稿していました。また、2018年に発見された冊子『揺籃』によると当時文筆作業も並行して行っていたようです。

夢二の初期の投稿では練習のために作られた習作が多く見られますが、その数年後の21~22歳には、新聞や雑誌に作品が掲載されるようになりその才能が世に知られることになります。このあたりから夢二というペンネームを使用し、竹久夢二と名乗るようになりました。

そして、竹久夢二は早稲田実業学校を中退したのを機に作家として活動していくようになります。しばらくは雑誌『少年文庫』のイラスト提供など児童誌での執筆がメインとなり、風刺画を発表していたことにより、社会主義に関する理解や交流も深めていったことが知られています。(下画像引用元:伊香保 保科美術館)

竹久夢二と三人の女性達・夢二式美人画の確立

夢二の周囲には、その作家性を語る上で欠かせない存在がいました。それが数々の作品のモデルになり、夢二式美人画の確立にも繋がったと言われる「岸たまき」「笠井ヒコノ」「お葉」三人の女性達です(画像引用元:竹久夢二美術館)。

左から岸たまき・笠井ヒコノ・お葉

彼女達との交流やすれ違いは竹久夢二の独特な世界観に深みを与えていきました。

①岸たまき(他万喜)との出会い・別れ

早くも作家として独り立ちした竹久夢二は、23歳(1907年)の頃結婚します。その相手が竹久夢二が生涯影響を受け続けた女性の一人である、岸たまきです。

岸たまきは唯一彼の子を授かった女性でもありました。以降で紹介している女性達の影響も竹久夢二の作風に関係していますが、気品のある肢体とメランコリックな表情の夢二式美人画は岸たまきの存在が根本にあると言われています。

彼女について、竹久夢二は生前”大いなる眼の殊に美しき人”と表していました。そんな岸たまきとは長男である虹之助を授かった後、考え方の不一致から協議離婚することになります。

この時、竹久夢二は25歳で初の著書『夢二画集-春の巻』が出版された頃でした。『夢二画集-春の巻』は瞬く間に売れていき、崩れた家庭生活とは裏腹に竹久夢二は作家業で順調に人気を集めていきます。

岸たまきとは竹久夢二が27歳頃、再び仲を取り戻し同棲関係になりました。この時、彼女は次男不二彦を出産しています。しかし、またしてもたまきは別居という形で竹久夢二と距離を取るようになるのでした。以降もこのような同棲と別居は二人の間で繰り返されていきます。

その中で夢二が手掛けた作品の雑貨を扱う「港屋絵草紙店」をたまきが営んでいたことや三男の誕生があったことが現在明らかになっています。

最終的に岸たまきはすれ違いから竹久夢二に絶縁を申し入れますが、晩年の結核療養中の夢二を訪ねたりその後亡くなった彼に対し思いを綴ったりなど、その愛は本物だったと言われています。

②笠井ヒコノ(彦乃)との出会い・別れ

笠井ヒコノも竹久夢二にとって、短い付き合いながらも作品に影響を与えた存在として挙げられます。笠井ヒコノと竹久夢二の関係は1914年夢二が30歳の頃、「港屋絵草紙店」にヒコノが訪れる所から始まりました。美術学生である笠井ヒコノは竹久夢二のファンであり、絵の教えを請おうとして彼を訪ねたのでした。

竹久夢二が彼女を気に入っていたこともあり、絵に関するやり取りを重ねていく内に二人は本格的な交際へと発展していきます。

二人の関係は竹久夢二が34歳になる1918年頃まで続きましたが。 竹久夢二が九州旅行に出かけている間、彼を追ったヒコノが結核を発病してしまうという悲劇が訪れました。 ヒコノは親族の手で東京の病院に移され、竹久夢二も東京のホテルに移動して面会を希望しますが彼女との対面は叶いませんでした。

そして、看護も実らずヒコノは25歳という短い生涯に幕を閉じることになります。彼女は竹久夢二との日々を綴った日記を遺しており、そうした書物は後に『彦乃日記』と呼ばれ貴重な当時の資料として扱われました。竹久夢二のヒコノへの愛情はかなり深かったようで、夢二はヒコノについて”最愛のひと”や”永遠のひと”と表現していたようです。

そうした思いの強さもあったせいか1924年、彼が40歳の頃に発表した新聞小説『秘薬紫雪』では、竹久夢二とヒコノをモデルにした登場人物が愛を誓いあう場面が描写されています。

③お葉(佐々木かねよ)との出会い・別れ

前述した二人の女性とは違い、お葉は絵のモデルとしての付き合いから竹久夢二に影響を与えた人物です。お葉という名称は竹久夢二が彼女をそう呼んでいたことから定着しました。お葉と竹久夢二が出会ったのは、ヒコノが病でこの世を去る1年前の1919年になります。

この頃、夢二はヒコノの身を案じるあまり執筆活動に集中できず、時には創作意欲さえも失っていました。そういった姿の彼を友人達が心配して紹介したのがお葉という存在です。お葉は画家達の間では人気の高いモデルとして有名で、竹久夢二に出会う1年前までは伊藤晴雨のモデル兼愛人として活動していました。お葉は竹久夢二が好んだ振る舞いや佇まいをしていたことから、まさに夢二好みの女性だったと言われています。お葉との出会いで竹久夢二は創作意欲を高め、ヒコノが闘病中であっても彼は執筆に集中し日本橋での「女と子供に寄する展覧会」の開催や『長崎十二景』などのシリーズ物を手掛けるようになるのでした。

ヒコノがこの世を去ってから1年後の1921年の時、37歳の竹久夢二はお葉と所帯を持つ関係になります。ですが、その幸せは長くは続きませんでした。所帯を持ってから6年後にお葉はヒコノの面影を自身に見続けている竹久夢二との関係で悩み、自殺未遂を図ってしまいます。その際心のケアとして夢二は彼女に金沢郊外の温泉地での養生を勧めるなどしましたが、最終的には1925年の頃二人は別れてしまうのでした。

竹久夢二の代表作の一つである『黒船屋』のモデルはヒコノ、もしくはこのお葉だとする説が強いようです。また、同じくお葉をモデルにしていた伊藤晴雨はアダルトなテーマで彼女を描写していたことから、伊藤晴雨の作品と品格を重視した竹久夢二作品の対比が現代でもしばしば話題になります。

 

その後の竹久夢二の活動と晩年

―わたし美人?―

上の絵は、竹久夢二42歳頃の作品で、1926年「APL・FOOL」に掲載されたものとなります。

お葉と別れた後、竹久夢二は執筆業を行う傍ら、海外への旅行や美術研究施設の設立などに意欲を見せるようになります。美術研究施設への取り組みは途中で頓挫してしまいますが、夢二は47歳の時に渡米告知個展を行った後、横浜の港からホノルルに向かい海外進出を果たしました。

アメリカに渡った夢二は現地で1年3ヶ月程度過ごした上で、西海岸にて個展を開いています。しかし、当時のアメリカは世界恐慌真っ只中ということもあり優美な竹久夢二の作品が受け入れられる状況ではありませんでした。以降は1年かけてチェコ、オーストリア、フランスなどへ渡欧しスケッチ画の作成や日本雑誌への寄稿を行っていたことが明らかになっています。そして、ドイツ、イタリア、台湾の順に訪れた竹久夢二は台湾の地において「竹久夢二画伯滞欧作品展覧会」を開催した後帰国しました。

帰国した夢二を待っていたのは、ヒコノを病に伏せた存在である結核への感染です。感染から1年程度療養を行っていましたが、1934年9月1日竹久夢二は51歳でこの世を去ることになります。

竹久夢二の没後

竹久夢二の没後は、絵画から小説、童話まで手掛けたマルチなアーティストである故人を多くのフォロワーが追随しました。 版画を日本に根付かせた恩地孝四郎もその一人です。また、竹久夢二は生活や産業に結び付けるデザインへの思想を抱いていたことから、グラフィックデザインの祖としても度々名前が挙がります。

加えて女性達とのドラマチックな逸話も竹久夢二ならではの魅力とされ、それを題材にした創作物も今日までに多く制作されています。

竹久夢二美術館について

最後に竹久夢二の作品の常設展や生涯を紹介している竹久夢二美術館についてみていきましょう。竹久夢二美術館は、弥生美術館と併設しており、東京都文京区弥生2丁目にあります。

竹久夢二美術館へのアクセス

竹久夢二美術館は、東京大学の北側にある暗闇坂の途中にあります。そのため、住所は少しわかりづらいですが以下の駅が最寄駅となります。

【電車の場合】

東京メトロ千代田線「根津駅」徒歩7分

東京メトロ南北線「東大前」徒歩7分

【バスの場合】

都営バス「上野公園山下―東大構内」の「東大構内」徒歩2分
都営バス「御茶ノ水駅前―東大構内」の「東大構内」下車徒歩2分
都営バス「上野公園―大塚駅(池袋駅東口)」の「弥生2丁目」徒歩3分
都営バス「上野松坂屋―早稲田リーガロイヤルホテル」の「根津駅」徒歩7分

 

竹久夢二と竹久夢二美術館まとめ

今回は竹久夢二について紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。マルチな才能を発揮した竹久夢二の作品には、交流を持った女性達の影響が色濃く残っています。女性達との愛と別れがあったからこそ、竹久夢二の美人画は今も輝き続けるのかもしれません。本記事で竹久夢二に興味を持った方は、是非文京区弥生にある竹久夢二美術館に足を運んでみてください。文京つーしんは、皆様にとって便利で有意義な文京区情報を随時発信していくメディアです。これからもご愛読よろしくお願い致します。

 

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