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永井荷風生家跡で知られる永井荷風とはどのような人物?

投稿日:2021/08/16by 

文京区春日に存在する永井荷風生家跡は、文豪永井荷風が住んでいた場所です。現在は開発が進み、当時の地形すら残されていませんが氏の功績を称えて案内板が建てられました。

今回はそんな文京区ゆかりの文人である永井荷風について紹介します。小説家、劇作家、随筆家として独自の美学を貫き、その自由な作風で多くの読者を魅了した永井荷風とは、一体どのような人物なのでしょうか。

 

永井荷風の生い立ち

 

永井荷風は1879年12月3日、現在の文京区春日二丁目にあたる小石川区金富町四十五番地にて永井壮吉(ながいそうきち)として生まれました。父親が優秀な官吏であったことから、当時の水準よりも裕福な家庭で壮吉は育ったと言われています。

壮吉は幼少期から、両親や周囲の影響で様々な趣味や文化に触れていました。

芝居見学が趣味である母の影響で日本芸能や邦楽を嗜むようになり、学者の岩渓裳川や画家の岡不崩、内閣書記官を担当する岡三橋などからは漢字、日本画、書道をそれぞれ学んでいます。

そうした関係もあって、本人いわく物心がつく頃には体育の授業でも古文や既存小説のことばかり考えているような文学少年になっていたようです。

そんな壮吉でしたが1894年、15歳の頃に体調不良で1年間休学することになります。この療養期間は壮吉にとって学友との距離を感じさせ、結果として勉強への意欲までも失わせる要因になりました。

しかし、その一方で更なる熱を持ったのが文学への興味と創作活動への意欲です。療養の時間は壮吉にとって八犬伝などの名作小説や江戸文学を読み重ねる時間となりました。

氏は後年当時のことを振り返り、作家として生きていくために必要な期間だったと述べています。

ちなみに永井荷風という雅号は療養期間中に想いを寄せていた看護婦にちなんで考案され、以降から使用するようになりました。

そして1897年3月、永井荷風は中学校を卒業します。それからは進学を希望しますが、受験失敗や学校中退という結果になり、学業は順当なものではなかったようです。

また、この頃父親が日本郵船の上海支部支店長になった関係で、上海での家族旅行をしていたことが明らかになっています。この旅行経験をまとめたのが『上海紀行』という作品です。『上海紀行』は永井荷風の処女作でもありました。

 

永井荷風の青年期

 

1898年以降から永井荷風は、落語家に弟子入りをして江戸文化への理解を深めたり、広津柳浪への師事、木曜会への入会をするなど文学に関する交流や研究を活発的に行いました。

そして、雑誌投稿を経てエミール・ゾラ作品などの翻訳本を世に出します。この中の一遍である『地獄の花』の翻訳は当時活躍していた森鴎外から絶賛されるほど感性に溢れたものでした。

類まれな作家性を発揮していく永井荷風ですが、権力などに影響されない自由な描写もこの頃から増えていくようになります。

当時の日本はまだ表現規制が厳しかったため、こういった面は必ずしも良い反応ばかりではありませんでした。1902年に発表された『新任知事』では福井県知事を務める叔父らしき人物を作中に登場させ、その表現から絶縁される事態になっています。

 

1903年、24歳になった永井荷風は父親から事業を学ぶように求められアメリカ、フランスなどの海外に足を運ぶことになります。この海外の滞在は1908年頃まで続き、現地の経験から1908年に『あめりか物語』の発刊を、翌1909年では『ふらんす物語』の発刊をそれぞれ行いました。

引用:ふらんす物語 岩波書店

 

『ふらんす物語』は内容が問題視され発行禁止になってしまいますが、軽快でお洒落な作中の表現は当時の読者から高い支持を得ています。

この2作は夏目漱石といった後世に名を残す存在から評価を得るきっかけにもなり、永井荷風は新鋭作家として名を広めていくのでした。後の文豪である谷崎潤一郎も氏の作品で感動を受けたことから、生涯永井荷風を慕っていくことになります。

また、永井荷風の活躍は作家業だけではありません。海外で音楽鑑賞を積極的に行っていた荷風は、日本音楽界にクラシック音楽の素晴らしさを伝えています。

1910年、31歳になった永井荷風は慶應義塾大学文学部の主任教授を務めました。永井荷風の担当は仏文学や仏言語に関する講義で、雑談も含めて生徒からの評判が良かったと言われています。

一説によるとこの評価は、固めの話が多い夏目漱石の講義とは正反対だったようです

 

永井荷風の美学

 

永井荷風の独特な趣味・趣向も氏を語る上で欠かせない事柄だと言えるでしょう。本項では作品にも影響が見られた永井荷風ならではの美学について紹介します。

 

女性に対する考え方

永井荷風は1912年から1915年の間に2度結婚と離婚を繰り返しています。そして、以後妻帯することはありませんでした。この短期間の結婚と離婚は不仲というよりも、永井荷風の女性観が原因だとする説が強いようです。

荷風は女性が人生を美しくさせると考えながらも、束縛されることを避けていました。女性への興味を作品として昇華させてきた氏にとって、家庭に収まるという生活は窮屈に感じたのでしょう。

実際女性との付き合い自体は若い頃から晩年までずっと続けており、「断腸亭日乗」などの資料によると生涯少なくとも16人の女性と付き合っていたようです。

 

荷風と愛人の一人である歌の写真
引用:荷風と歌 東京さまよい記

 

寂しさや孤独との向き合い方

いくつかの作品が表現により発禁処分を受ける中で、永井荷風は作家として疎外感や孤独感を味わうようになります。学生時、療養で友と離れてしまうことについて悩んだり、進学が上手くいかなかったことを考えると、何かしらの寂しさを長期に渡って荷風は感じていたのかもしれません。

ですが、氏は寂しさや悲しみこそ尽きることのない想いだとして創作の原動力にしていたようです。

 

変わり者としての永井荷風

永井荷風は自身の性格を偏屈や変わり者という言葉で表していました。実際、荷風のこだわりは年を取るごとに強まっていき、周囲を驚かせる行動をすることもあったようです。

以下はその中でも比較的取り上げられることの多いエピソードになります。

・馴染みの食堂に通い続け、毎回同じメニューを特定の席で食べる。先客が居ると立ち去るか席が空くまで待つ。

・戦前はそれなりに裕福な生活をしていたが、戦後~晩年では資産があるにも関わらず部屋では1つの電球で過ごしていた。その一方で、当時タンス1棹と同価値のインスタントコーヒーを購入している。

・全財産をカバンに入れて日常的に持ち歩く。時には置き忘れたことも。

・年を取るごとに周囲との関わりを制限していくようになる。そのため、家政婦に発見されるまで亡くなった事に気づかれなかった。

・自身の性格から1920年に建てたペンキ塗りの洋館を偏奇館と呼ぶ。

 

また、永井荷風は洋風の家具や衣類を積極的に取り入れたことでも知られています。氏のトレードマークでもあるスーツ、シャツ、ネクタイは日常的に着用していたようです。

 

 

拡大する作家活動と戦争による変化

 

1926年頃に、47歳になった永井荷風は現代で言うところのカフェ店に通うようになります。これは永井荷風の興味が芸者女性から女給や娼婦などに移行したことがきっかけのようです。

1931年に発表した『つゆのあとさき』、1934年に発表した『ひかげの花』などではその傾向が見られます。

この頃父親の遺産で暮らしていた永井荷風の元には、自身の大全集を発刊したことによる多数の印税が入るようになります。

更に裕福な暮らしが可能になった永井荷風は、女性との遊びや周辺地域の散策をより頻繁に行うようになったそうです。『深川の散歩』『寺じまの記』『放水路』はこの際の散策経験を活かした随筆になります。

また、浅草の軽演劇にも足を運び、関係者や女優との親交を深めました。その縁もあって1938年には浅草オペラ館で歌劇『葛飾情話』を手掛けています。作品は好評で次作も行う予定でしたが戦争の影響で中止になりました。

そして、1939年に第二次世界大戦が始まります。戦争が激化していくと自由気ままな暮らしをしていた荷風も段々食料や燃料の不足に悩まされていきます。作品の執筆こそしていましたが、新作を出す時局ではなかったため、知友に複写を預けるなど万が一に備えていたようです

それからしばらく経った1945年3月9日、66歳になった永井荷風は東京大空襲で偏奇館を燃やされてしまいます。自身は執筆したものを抱えて避難しましたが、蔵書などはほぼ燃えてしまったようです。

以降、永井荷風は知人を頼り地方へと避難することになります。当時荷風はすでに高齢だったこともあり、疎開先で体調不良に悩まされました。そんな時、永井荷風を助けたのが彼を慕う谷崎潤一郎です。

谷崎潤一郎の手厚い気遣いや食事への招待は永井荷風の元気を取り戻す要因になりました。特に貧しい疎開生活の中で、牛肉やお酒を味わえたことは荷風にとって大きな喜びだったようです。その後、谷崎潤一郎と共に過ごしていた岡山の地で永井荷風は終戦を知るのでした。

 

終戦から晩年までの永井荷風

 

終戦後、永井荷風は住む場所を失っていたため従弟達と共に知人の家でお世話になります。しかし、荷風は周囲への配慮がない生活をしていたようで、同居人とのトラブルは尽きなかったそうです。

また、この頃永井荷風はストリップ小屋にも通うようになりました。当時撮られた写真には多数の女優と一緒に写っている永井荷風の姿があります。

 

浅草ロック座で女優と写真を撮る永井荷風
引用:永井荷風ノ散歩道 万年床の書斎兼寝室兼居間 Blog「みずき」

 

1948年、69歳になり新居を購入した永井荷風は以前の気ままな生活を取り戻していました。同居人生活の煩わしさから解放された反動からか、浅草や葛飾への散策、自身の脚本による劇の上演、その劇への特別出演など精力的な活動をしています。

1952年には数々の功績が認められ文化勲章を受章し、翌年には恩師森鴎外のための『沙羅の木』の碑文建設、記念館作りへの寄付に協力しました。

そんな永井荷風でしたが、1959年3月あたりから病により歩行困難になってしまいます。その際の記録によると食堂に行く時以外にはずっとひきこもっていたようです。

そして、同年4月30日亡くなっている永井荷風が発見されその生涯に幕を閉じたのでした。

 

永井荷風没後の影響

 

海外情緒を描写した永井荷風は、日本人が海外の文学や風俗に触れるための下地作りに大きく貢献することになりました。活躍した時代には森鴎外などの著名作家もいましたが、森氏含め公的な立場や地位がある人物ほど表現規制と作家としてのあり方で悩むことになります。

発禁処分を受けようと美学と感性を貫き通した永井荷風は、孤独や疎外感と引き換えにそのようなしがらみから解き放たれた人物でもあるのです。谷崎潤一郎をはじめとして、そうした永井荷風の情熱に心を打たれた作家は少なくありません。

 

永井荷風という人物についてのまとめ

 

永井荷風は海外文学や近代の女性美に注目した作家です。権力に縛られることを避け新しい表現を追ったことから、近代作家の中でも反骨精神に溢れた人物だと言われています。

永井荷風のように独自の路線を貫いた人が居たからこそ今の日本文学があるのかもしれませんね。

文京つーしんでは皆様にとって役立つ情報や文京区に関連する事柄を紹介しています。引き続きご愛読のほどよろしくおねがいします。

 

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