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宮沢賢治は文京区でどのような生活や活動をしていたの?

投稿日:2021/08/29by 

宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」「雨ニモマケズ」といった作品などで知られる岩手県出身の作家です。自然や宗教から影響を受けた創作が没後に評価され、現在に至るまで日本を代表する作家として名を残してきました。

そんな宮沢賢治ですが、生前短期間ながら文京区で生活していたことが判明しています。

後の国民的作家は一体どのような生活や活動を当時行っていたのでしょうか。その詳細を以降より解説していきます。

突然の上京

1921123日、25歳の宮沢賢治は父親と宗教観の違いからもめてしまい家出をします。そして、信仰する法華経へ父親を入信させるために布教の腕を磨くべく東京へ向かったのでした。

この時、宮沢賢治は着の身着のまま飛び出していたようで、上京生活への準備はほぼしていなかったようです。

夜行列車で上野の街にやってきた宮沢賢治は、法華経の団体である国柱会を訪ねることになります。賢治はそこで住み込みでの勤務を希望しますが、残念ながら受け入れられませんでした。

その後、布教活動に参加しやすい場所である本郷區菊坂75番地(現在の本郷4-35-4にあたる場所)で住み始めることになります。

 

宮沢賢治旧居跡の案内板
引用:宮沢賢治旧居跡―文京区 かわゆら

 

法華教への取り組みと原稿の執筆

宮沢賢治が文京区本郷周辺に滞在した期間はおよそ七か月程度だと見られています。滞在中は東大赤門前の文信社という印刷所に務めていたようです。なお、この文信社の場所は大学堂眼鏡店を経て、現在は寺本内科歯科クリニックが建っています。

気になる宮沢賢治の当時の生活状況ですが、布教のために時間と予算を大きく割いていたようです。食事は芋類、豆腐や油揚げなどが中心でした。

昼に時間があれば街頭で法華経の布教を行い、夜は国柱会館で法華経講師の話を聞く、という生活サイクルだったと言われています。

また、そのような生活をしながらも国柱会の高知尾講師からの勧めで法華教の教えに基づく創作、所謂法華文学を執筆していました。この頃の創作熱意はかなりのものだったようで一か月に三千枚の原稿を執筆したという逸話もあります。

家族にはこの原稿の山について”童子(わらし)こさえるかわりに書いたのだもや”と口にしていたそうです。「注文の多い料理店」の収録作品や童話の第1稿は、この際執筆された可能性が高いとされています。

 

「注文の多い料理店」
引用:注文の多い料理店-宮沢賢治童話集1-(新装版) ブックライブ

 

父の思いと説得

明治時代の父親というと子供に勉強よりも家業・商いを重視させるイメージがあるかもしれませんね。しかし、宮沢賢治の父・政次郎は先の事を考えて子供達を進学させるなど、当時にしては柔軟な思考を持つ父親だったと言われています。

また、家族への愛情も強く宮沢賢治やその妹トシが病に苦しむ度に、政次郎は看病しに出かけていたようです。

そんな良き父親であった政次郎ですが、独自の価値観を貫こうとする宮沢賢治とは度々対立するようになってしまいます。

特に宗教関連での対立は有名で、古くからの浄土真宗信者である政次郎にとって法華教にのめり込み、熱心に勧誘してくる宮沢賢治は悩みの種でした。一説によるとある時から毎晩宮沢賢治は政次郎に改宗を迫っていたようです。

上記のような経緯があった事から、今回の宮沢賢治による家出は起こるべくして起きた事なのかもしれません。

ですが、そのような出来事があっても政次郎は家出した宮沢賢治を心配していたらしく、賢治の住まいへ小切手と帰郷を促す手紙を度々送っていたそうです。賢治は当初それを受け取りませんでしたが、時間が経つにつれて受け取るようになっていきます。

宮沢賢治の家出から三か月程度経った頃、政次郎は賢治を関西旅行に誘いました。この旅行は賢治との和解や説得も兼ねていたようです。

そして、伊勢や奈良を巡る中で政次郎は法華経および国柱会との関わりを賢治に見直すように言います。しかし、結局賢治が考え方を改めることはありませんでした。旅行から帰る頃には両者とも改宗について口にせず、宮沢賢治に見送られて政次郎は岩手に戻っていきます。

保阪嘉内との決別

上京した当時、宮沢賢治には後に教育者や詩人として名を残す保阪嘉内という盛岡高等農林学校時代からの友達がいました。嘉内は「銀河鉄道の夜」に出てくるカムパネルラのモデルになった人物とも言われています。

似た志を持った二人は学校で出会ってからすぐに意気投合することになり、演劇や創作など様々な経験を共にしていたようです。また、嘉内のマルチな才能に宮沢賢治はある種の尊敬の念を抱いていたと言われています。

宮沢賢治は嘉内が学校を退学してからも、度々手紙を送って再開を願っていました。しかし、この家出による上京後からは近況報告というよりかは法華教への入信を勧めるような手紙を頻繁に送っていたようです。

嘉内は自身の宗教観と異なるためその勧めを度々断りますが、宮沢賢治は中々諦めませんでした。

そして19217月、上野図書館(現在の国際子ども図書館)で会った二人は「ほんとうのさいわい」について議論した後、もう同じ道を歩めないと結論を下し決別することになります。以降、宮沢賢治から保阪嘉内に宛てた手紙は急激に減り、再会することもなかったようです。

宮沢賢治の作品「図書館幻想」は図書館内でダルゲという人物と決別するという内容であるため、この時の出来事がモデルになっている可能性があります。

トシの病と帰郷

上京してから七か月程度経った1921年の8月中旬、妹・トシの病が悪化していることを伝える電報が宮沢賢治の元に届きます。

宮沢賢治にとってトシは最愛の妹と呼べる存在でした。

賢治は学業で家を離れたトシに対して手紙を通して彼女の悩みに答えてあげたりするなど、兄として常に親身になって支えていたようです。また、1918年にトシが呼吸器疾患で病に伏せていた時には、賢治は母親と共に上京し下宿してまで三か月間の看病を行っています。

加えて、宗教観の違いなどで対人関係が不仲になりやすかった賢治にとって自身の考えを尊重してくれるトシは彼の最大の理解者でもありました。そんな親しいトシの体調が悪いという報せが来てしまっては法華経への熱心な活動も中止せねばならず、帰郷することになります。

トシはこの一年後亡くなってしまい、彼女の死は宮沢賢治の人生観や作品作りなどに大きな変化を与えることになりました。

 

妹・トシ
引用:17 賢治の略歴 宮沢賢治の世界へ、ようこそ!

 

宮沢賢治が住んでいたことによる影響

文京区は森鴎外や樋口一葉、竹久夢二など多くの作家が生誕・活動していた街なので、記念館などでも宮沢賢治のエピソードが大々的に取り上げられることはそこまで多くありません。

しかし、宮沢賢治旧居跡に記念案内板が建てられていたり「注文の多い料理店」をモデルにした山猫軒が最近まで存在していたりなど、宮沢賢治が住んでいた影響は現代においてもしっかりと残っています。

 

山猫軒(※現在は閉店済み)
引用:山猫軒:宮沢賢治の世界がそこに…? 楽文京堂

 

宮沢賢治の文京区生活・活動のまとめ

国民的作家として知られる宮沢賢治は、短期間ですが現在の文京区本郷にあたる場所で生活していました。この地において賢治は熱心な布教活動と創作の執筆に取り組む中で、父との対話や親友との決別など色濃い経験をしていきます。

後に発表されるいくつかの作品がこの時期に作られたものだと考えると、文京区での生活は氏の作家人生の中でも特に大切な時間だったのかもしれません。

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