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文京区千駄木の大給坂の由来、大給家ってどんな家系?

投稿日:2021/11/13by 
文京区千駄木の大給坂の由来、大給家ってどんな家系?

文京区千駄木には団子坂や動坂といった有名な坂がいくつかあります。文京区の歴史ある坂として大給坂(おぎゅうざか)もその一つで、豪族や伯爵として有名な大給一族の土地があった区画となっています。そこで今回はその大給坂や大給一族、それにまつわる人物についてまとめてみました。

 

文京区千駄木にある大給坂とは

大給坂は、千駄木三丁目に位置する不忍通りから保健所通りに向かって千駄木の住宅街を上る坂道です。坂の途中には千駄木3丁目第二児童遊園があり、ランドマークとも言われる大給邸跡のイチョウの木があります。

大給坂

大給坂

名前の由来

大給坂の名前は、坂上に伯爵・大給家の屋敷があったことから名付けられました。

大給一族は、戦国時代に三河国(今の愛知県)賀茂郡大給を本拠とした豪族です。大給家は、愛知県に大給城として豊田市大内町に城を構えていたこともあるほどの大きな一族でした。江戸時代になると、大給松平家として徳川家に仕え本家・一族で大名や高級旗本になったもの多く、歴代の老中を五人も排出しています。

明治時代になり版籍奉還が行われ太政官達が制定された際には、大給松平家は幕末まで続いた譜代大名として大給 恒(おぎゅう ゆずる)、旧名・松平 乗謨(まつだいら のりかた)が伯爵となっています。

子爵・大給 恒

子爵・大給 恒

 

伯爵について

日本では爵位制度が認められるようになったのは、明治時代以降のことになります。

明治政府は江戸時代以前の身分制度を四民平等の下で廃止する一方、明治2年(1869年)に、太政官達「公卿諸侯の称を廃し改て華族と称す」により華族制度を創設し、代々天皇に仕えた公家と、三百諸侯として全国に割拠した大名を天皇の守護に組み込みました。

華族・爵位制度には、元公卿・元諸侯等と国家功労者の家の戸主に与えられた公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五爵が該当し、財産の差押がされない「華族世襲財産法」などの対象になりました。

大給恒は子爵として、維新前に旧小藩知事・米5万石未満及び諸侯として国家に功績あるものに該当しています。

 

大給坂の場所・アクセス

大給坂の住所は、東京都千駄木3-27となっています。

大給坂の坂上の保健所通りは南側は団子坂、北側は動坂の大通りとつながっています。保健所通りは、電線の地中化や歩道の拡張などが行われ「コミュニティ道路」として文京区の区バス「Bーぐる」の経路にもなっています。

保健所通り

保健所通り

大給坂アクセス

大給坂へのアクセスは以下のようになっています。

【電車の場合】

東京メトロ千代田線「千駄木駅」徒歩10分

【バスの場合】

都バス上58・草63「千駄木三丁目」徒歩2分(坂下)

Bーぐる 千駄木・駒込ルート「特養ホーム千駄木の郷」徒歩2分

Bーぐる 千駄木・駒込ルート「千駄木小学校」徒歩4分

この坂上の保健所通りは、車で通る場合は南側の団子坂から車で入る一方通行の道路となっています。道路は少し幅が広めですが、学校や公園が付近にあり子どもの通りも多いため気をつけましょう。

 

大給坂周辺について

次に大給坂の周辺についてみていきましょう。

大給坂の坂上

大給坂の坂上は坂上には、警察庁千駄木宿舎があります。坂上付近には旧安田財閥の安田善次郎の三女峯子と夫の善四郎が住んだことのある旧安田楠雄邸庭園があります。この通りは、安田家がこの土地を購入した当時は数々の銀行頭取が居住を構えたことから、「銀行通り」と呼ばれていたそうです。

旧安田楠雄邸跡

旧安田楠雄邸跡

この大給坂付近の高台は「千駄木山」と呼ばれ、明治時代からプロレタリア文学で有名な宮本百合子や彫刻家、詩人の高村光太郎といった多くの文人が住んだ由緒ある地域となっています。

大給坂の坂上の通りをさらに北へ行くと、学力レベルが高く有名大学へ進学する人を多く排出している区立小学校「3S1K」の一角である文京区立千駄木小学校もあります。

大給坂の途中

大給坂途中

大給坂中腹

大給坂の中腹には、千駄木三丁目第二児童遊園があります。公園内には大給邸にあったイチョウが、大給邸跡のイチョウとして残っています。 このイチョウの木は、昭和の時代に入り大給邸が三木証券の創業者・鈴木三樹之助に譲られることとなった際に、大給家が「このイチョウの木だけは残して欲しい」と伝えたという逸話が残っています。

戦後、三樹之助の娘である志げ子がこの屋敷に住み、この志げ子の夫となった大平正芳(おおひら まさよし)は、後に第68・69代内閣総理大臣となりました。

大平正芳は総理大臣を終え、昭和41年(1996年)に世田谷区へ転居することとなった際にイチョウの立つ場所を文京区に寄付しました。そのため、千駄木三丁目第二児童遊園の一角には「旧大給邸のイチョウ」として当時のイチョウが現在にも残っています。

千駄木第二児童遊園イチョウの木(写真左)

イチョウの木(写真左)

 

大給坂の坂下

最後に、大給坂の坂下をみていきましょう。

大給坂の坂下には大人3人が両手を広げた位の幅の場所にひっそりと坂下観音が祀られています。このようなちょっとしたところに観音様がいるのが、千駄木周辺の下町の雰囲気と合っていていいですね。

坂下観音

坂下観音

その先をずっと行くと不忍通りとなっています。現在は、大給坂の途中には飲食店などはなく閑静な住宅街となっており、千駄木の歴史を今に黙々と伝えています。

 

大給坂まとめ

いかがだったでしょうか。今回は文京区のローカルな坂道の話になりましたが、このような小さな坂道にも歴史があるのが文京区の良いところですね。文京つーしんでは皆様の役に立つ情報を配信しておりますので引き続きよろしくお願いします。

 

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