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日本女子教育に貢献した成瀬仁藏はどんな人?日本女子大学との関係

投稿日:2022/06/11by 
日本女子教育に貢献した成瀬仁藏はどんな人?

文京区は文教の街として知られていますが、区内には複数の女子校や女子大学があり、女性の高等教育についても先進的な地域と捉えることもできます。そこで今回は、昭和時代に女子高等教育の発展に貢献し、日本女子大学を創設した成瀬仁藏という人物についてまとめてみました。

 

成瀬仁蔵とは?

成瀬仁蔵は、昭和の宗教家・教育者・社会活動家です。明治維新後の日本の激動期に女子の高等教育の重要性を訴えるために活動し、明治34年(1901年)に日本女子大学を創設、初代校長となりました。

成瀬仁藏

成瀬仁藏

成瀬仁藏の生い立ち

成瀬仁蔵は、安政5年(1858年)に長州、現在の山口市吉敷に誕生しました。成瀬仁蔵の父は吉敷毛利家の秘書役を務める文官の成瀬小右衛門で、母は近村の武家の出身でした。その他、成瀬には姉と弟の兄弟がいました。

しかし、わずか7歳という年齢で母と祖母を亡くし、16歳の時には父と弟も病で亡くなってしまいます。

そのため、明治9年(1876年)の18歳の時に山口教員養成所を卒業し、県内の小学校教師に従事した翌年には、当時初めて日本でキリスト教の牧師となった澤山保羅(さわやまぼうろ)を訪ね、大阪の浪花教会において洗礼を受けています。

この成瀬仁藏のキリスト教の洗礼については、幼い頃の家族の死や澤山保羅との対話が大きな影響を及ぼしたとされています。

キリスト教信徒による女子教育学校

その後、成瀬仁蔵は、信徒や牧師という立場からキリスト教の信徒による学校創設に関わります。

明治11年(1878年)には、日本組合基督教会の信徒によって開かれた大阪梅花女学校の創設に関わり、専任教師を務め奮闘したのち、牧師となりました。

明治19年(1886年)には、新潟教会を設立し、初代牧師として活動しました。その後、明治20年(1887年)には、キリスト教主義の新潟女学校を開校、校長を経て、明治23年に女子教育の研究のために単身アメリカへ4年間留学します。

留学中にアメリカ社会の実態を目にした成瀬は、日本の女子の高等教育の重要性を痛感し、帰国後は女子高等教育の重要性を説き、女子大学の創立を企画しました。

 

江戸や昭和初期の女子教育はどのようだったのか。

現在では、当時の女子教育がいまいちわかりませんので、具体的な例として明治31年(1910年)に広岡浅子による「余と本校の関係を述べて生徒諸子に告ぐ」で語られた講和の一部をみてみたいと思います。

 

「(前略)其頃は、女子の教育は竪琴と三味線と習字くらいのものでした、そうして少し年をとると裁縫をもっぱらする。然るに、私は随分御転婆でした、否余程御転婆でしたから、わたしはそういう稽古は皆嫌ひでした、故に兄弟の勉強して居りました四書の読書がしてみたいのでありました、それで時々弟達の書物を借りて大学や論語を読んでみたのです。尤も訳は分からないのです、只素読の真似をするのです。すると両親やら伯父さん伯母さん達が、知りまして、そんな男のすることをまねてはいけませんと度々小言を聞きました。(後略)」

 

このような内容から、小石川三井家六代当主・三井高益の四女であった広岡浅子のような上流階級の女性とされた人々でも、当時の学問の主流であった中国の孔子思想や儒学について学ぶことはほとんど受け入れられていなかったことが分かります。

 

成瀬仁蔵と当時の著名人

女子大学設立に向けて、当時の政界人への支援を求める中で大きな反対や紆余曲折はあったもの、1900年に三井家から東京目白台の土地が寄付されると、開校に向けて進展しました。翌年明治34年(1901年)には、日本で初めてキリスト教主義の学校ではない高等教育機関として日本女子大学校が、開校しました。

当時の日本女子大学

日本女子大学の開設当初の校長は成瀬が就任しており、広岡浅子が大学の評議員となっています。大学の教授陣には、帝国大学をはじめ、米国や英国の外国人教師やフランス料理のシェフ、著名な画家なども加わり授業が行われました。

また、日本女子大学の三代目の校長には渋沢栄一が就任しており、当時の影響力の強さが窺えます。

中央:渋沢栄一 右上:成瀬仁藏

中央:渋沢栄一 右上:成瀬仁藏

当時の日本女子大学の教科は、家事・裁縫などの当時の女子教育とされてきたものを家政として一学問として確立し、理科教育に重点がおかれ、実験・実習という体験的な教育が重視されました。また、体育は必修科目となり、バスケットボールや野球、ダンス、自転車といった新しいスポーツが取り入れられました。

さらに「実践倫理」の講義では、成瀬仁藏校長自らが講堂で講話を行い、教育・社会・哲学・宗教・時事問題など国内外に渡る幅広いテーマの講話がおこわなれたようです。

日本女子大学の運営に当時の日本の中枢の人物や団体が深く関わるようになってきたことは、成瀬仁藏が一人行っていた女子の高等教育運動が時代の中枢に移ってきたことを表していて感慨深いですね。

 

成瀬仁藏に関連する施設

最後に、目白台付近にある成瀬仁藏に関する施設についてみていきましょう。

成瀬記念館(日本女子大学敷地内)

文京区目白台には日本女子大学の中に成瀬記念館があり、成瀬仁蔵や当時の女子教育についての資料が保存されています。こちらは、一般の方も入館が可能となっています。※開館日や時間は事前に確認ください

成瀬記念館の住所は東京都文京区目白台2-8-1となります。

成瀬記念館へのアクセスは以下のようになります。

東京メトロ副都心線「雑司が谷」駅から徒歩約8分

東京メトロ有楽町線「護国寺」駅から徒歩約10分

雑司ヶ谷霊苑

成瀬仁藏は大正8年(1919年)に肝臓癌のために亡くなられました。同年3月9日に講堂で告別式が行われ、大正11年(1922年)に雑司ヶ谷霊苑に墓碑が建設されました。

成瀬仁藏の墓所は、雑司ヶ谷霊園の北東部にあり、近くには文京区にもゆかりのある竹久夢二、夏目漱石の他、島村抱月のお墓もあります。

 

成瀬仁藏と女子高等教育のまとめ

いかがだったでしょうか。文京区には、女子の高等教育を行う学校が多くありますが、今回の成瀬仁藏のように女子高等教育に関わった人物や時代背景を知るとそれぞれの学校のルーツにも興味が湧いてきますね。文京つーしんでは皆様の役に立つ情報を配信しておりますので引き続きよろしくお願いします。

 

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◼︎ 詳細情報

参考文献

写真で見る 成瀬仁藏 その生涯(日本女子大学成瀬記念館)
成瀬仁藏の生涯をまとめた冊子です。日本女子大学の成瀬記念館にあります。
広岡浅子 関連資料目録
日本女子大学成瀬記念館所蔵の広岡浅子に関する資料集になります。

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