文京区護国寺には江戸時代から明治時代にかけての著名な人物のお墓があります。中には大倉喜八郎や益田孝といった実業家の墓もあります。そこで今回は、三井物産の初代代表となった益田孝についてまとめてみました。
三井物産とは
三井物産は三井系の流れを含む総合商社です。鉄鉱石やLNG(液化天然ガス)などの資源分野に強みを持ちます。初代社長となった益田孝は「貿易会社」の業態をはるかに超える「総合商社」という業態を作り出した人物です。
当時の三井物産は、第二次世界大戦後のGHQの占領政策によって財閥として解体されました。そのため、現在の三井物産は、解散によって生まれた第一物産をはじめとする数十社の企業が昭和34年(1959年)に“大合同”を遂げることで再度誕生した企業になります。
したがって、旧三井物産と現在の三井物産は法人格的な継続性はないとされています。しかし、旧三井物産が残した理念や実績は現在の三井物産の中にも生き続けています。
益田孝とはどのような人物なのか
では、三井物産の初代総轄となった益田孝とはどのような人物なのでしょうか。
益田孝は、嘉応元年(1848年)に佐渡島(現在の新潟県佐渡郡)北東部に益田徳之信として生まれました。
益田孝の父は益田孝義(鷹之助)、母はらくです。。
父である孝義は孝の出生当時は佐渡国の奉行支配目付役でしたが、1854年に函館奉行支配調役下役となったため一家で函館に移り、1859年に勤務先が江戸詰となると江戸に移りました。
父である孝義の影響
奉行としてさまざまなところに移り住んだ父の影響もあり、益田孝も移住を繰り返しさまざまな経験を詰みました。
益田孝が北海道(※函館)にいるときには、「函館の洋楽者」と呼ばれる名村五八郎のもとに通っており、英語を喋る外国人とも慣れ親しんでいました。
江戸に移った文久元年(1861年)には14歳で元服すると外国方通弁誤用を命じられ、宿寺詰として初代アメリカ駐日総領事タウゼント=ハリスの元でアメリカ公使館に勤務しました。
幕府が横浜鎖港の談判のために使節団を送る文久3年(1963年)には、会計役として同行した父孝義に随行し、遣欧使節団の一員としてヨーロッパに行きます。
※当時の表記は「箱館」
益田孝の語学力
益田孝は函館時代から英語に親しんでおり、横浜では明治学院の創設者であるジェームス・カーティス・ヘボンの門下生でした。1863年に横浜で開設した男女共学のヘボン塾で孝は2ヶ月の教鞭を受け、遣欧使節団としてヨーロッパに行きました。ヘボン塾には第20代内閣総理大臣となった高橋是清といった著名人も門下生にいます。
騎兵隊としての活躍
ヨーロッパから日本に戻った元治(1864年)に孝は、幕府の騎兵隊に志願し横浜で訓練を受けます。3年後、この横浜の訓練所は演習所の狭さなどを理由に、慶応3年(1867年)には6月から9月の間に江戸へ移りました。
江戸に移った慶応3年(1867年)20歳の時に、益田孝は、現在の文京区の金剛寺坂へ移住し、同年5月14日に妻の矢野えいと結婚式をあげました。
益田孝が移転した江戸の騎兵駐屯所は神田一橋門寄であったため、春日から神田まで黒鹿毛の馬に騎乗して2,5kmほどの道を通っていたというエピソードも残っています。孝の階級は慶応3年(1867年)6月15日には旗本となりました。
しかしながら、この頃は江戸幕府も終焉に近づき10月には京で大政奉還が行われ、12月には王政復古が行われることとなります。
そのため、慶応4年1月に孝は、徳川慶喜から直々に「騎兵頭並」の辞令を伝えられました。
明治維新後
倒幕後、益田孝は横浜に戻り、通訳や中谷徳兵衛の名で茶や海産物の売り込み商として働きました。その2年後、孝は本格的な売り込み商として明治2年(1870年)にはウォルシュ・ホール商会につとめ、事務員として働くこととなります。
ウォルシュ・ホール商会で益田孝は、海外からの米の輸入や手紙のカーボン紙によるコピーなどの実務を行い、貿易実務を身につけていきます。また、大きな取引では、「蒸気船が欲しい」という情報を受けると、保証先の金融を米穀問屋に頼み商品の売れ行きを定める販売を考えるというトレーダー(産業オーガナイザー)のような役割も担いました。
造幣寮への入社、大蔵省へ
明治4年(1871年)孝は、岡田平蔵から日本の古い金銀を買い集め、分析して造幣寮へ地金を売る古金銀分析所の仕事を依頼されます。大阪でこちらを手伝っていましたが、あるとき岡田から井上馨を紹介され翌年3月には大蔵省に入社、4月には造幣権頭となります。
造幣寮頭に就任した明治5年に孝は当時22歳であった明治天皇をお迎えし、大阪府庁、大阪の造幣寮泉布館のガス灯や西洋料理、大阪相撲展覧などを楽しんでいただきました。
しかし、明治初期の混乱や尾去沢銅山事件などのなか明治6年(1873年)5月には大蔵省の実権者であった井上馨と少輔の渋沢栄一が財政改革意見書と辞表を提出すると、益田孝も追って辞職することとなります。
岡田組の発足・先収会社へ
大蔵大輔を辞職した井上馨は、明治7年に岡田平蔵とともに「岡田組」を発足しました。岡田組では井上馨が総裁、岡田平蔵が社長、益田孝が頭取となり、米穀の輸出などをしていました。しかし、岡田平蔵が明治7年1月25日に急逝したのち、社名は、千秋社、千歳社と代わり、3月の発足時には先収会社となりました。
先収会社は、米、生糸、茶の輸出と武器、羅沙、米、肥料、古銅などの輸入を手掛ける会社です。
特に、米穀取引が重要な業務であり、明治6年(1873年)に地租改正に関する一連の法令が出されると、江戸時代の年貢に代わり地租が設定され、納税方法が米から金に変わりました。これにより農民は米を売却しなくてはならず、売却のめどが立たないところを先収会社が農民から米を買取り船で輸送して売却をして利益をあげました。
また先収会社は、陸軍省の御用も引き受けていたので、海外からの絨毯・毛布・武器・米袋などの輸入も行いました。
当時の先収会社の繁栄ぶりは、明治8年に「横浜毎日新聞」から名社に与えられたあだ名「猗頓」を授けられたことからも窺えます。この猗頓とは、中国・春秋時代の大富豪のことを指し、それに類する稼ぎ頭として命名されました。
しかしこの会社も、1875年の井上馨の入閣により、先収会社は解散に追い込まれます。
先収会社から三井物産発足へ
先収会社解散が騒がれている頃、益田孝は三井の総頭であった三野村利左衛門から三井組に入るように説得されていました。しかし、孝自身は「三井の事業は旧家から続くもののため経験の浅い自分が入ってもうまくいかないであろう」となかなか受け入れませんでした。
そこで、三野村は付合いの深い大隈重信に自分の希望を話します。その話が大隈から井上へと話が伝わり、井上からの再三の説得から益田は三井行き、5月1日に井上馨・三田村・益田の会談により先収会社を引き継ぐ三井物産の経営が決まります。
その後、明治9年(1876年)7月1日に三井物産は三井銀行と同日に、社主三井高明・高尚と総轄益田孝で開業することとなります。
三井物産と益田孝のその後について
27歳の益田孝が総轄となり、明治9年1876年7月1日に開業した三井物産は職員16名、三井の出資なしという始まりでした。しかし、「貿易」を本務とする新会社は同年11月に三井組の貿易部門を併合すると、職員70名余りに拡大しました。その後、事業は好調にすすみ1880年までには国内支店のみならず、上海、パリ、香港、ニューヨーク、ロンドンなど海外にも支店を開設し事業を拡大していきました。
益田孝のその後の生涯
その後の益田孝の生涯は以下のようになります。
明治25年(1892年)45歳のときに三井物産社長を辞して取締役に就任
大正2年(1913年)66歳で第一線から引退、三井合名相談役に退く
大正7年(1918年)71歳で男爵を授けられる(爵位についてはこちら)
昭和13年(1938年)91歳小田原で永眠。社員からは「大御所」と呼ばれ、晩年まで三井合名の主要な政策決定に影響力を行使し続けました
文京区護国寺にある益田孝のお墓
益田孝のお墓は、護国寺の北側にあります。近くには、明治期の西洋建築家であるジョサイア・コンドルの墓などもあります。
前述した通り、益田孝は文京区春日の金剛寺坂に住んでいた時期もあり、妻である矢野えいも金剛寺坂で古着屋を営んでいたという記録も残っています。現在はあまりその辺りの記録は残っていませんが、このように文京区と関わりがある人物であることがわかると嬉しいですね。益田公の晩年は、鈍翁の号を持ち、「千利休以来の大茶人」と称されるなど、茶人・美術収集家としても名高い人物とされています。
益田孝まとめ
いかがだったでしょうか。三井物産といえば、現在は三井グループ中核の総合商社となっており、海外からも多くの期待が寄せられています。今回の記事からは、多くの偉人がそうであるように益田孝も非常に波瀾万丈な人生を送ったことが窺えますね。文京つーしんでは、皆様の役にたつ譲歩を配信しておりますので、引き続きよろしくおねがいします。
◼︎ 詳細情報
参考文献
- 益田孝 天人録
- 新人物住来社 松永秀夫
- 三野村利左衛門と益田孝
- 山川出版社 森田貴子
- 三井物産ホームページ
- 三井物産
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