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明治時代に始まる華族制度ってどんなもの?文京区に関係する華族は誰?

投稿日:2021/11/27by 
明治時代に始まる華族制度ってどんなもの?文京区に関係する華族は誰?

文京区に所縁のある人物には、護国寺に三条実美や大隈重信といった明治時代の元勲クラスの人物のお墓がある一方で、江戸時代に征夷大将軍となり、のちに公爵となった徳川慶喜のような人物まで幅広い著名人がいます。そこで今回は、このような著名な人物達が持つ称号の一つである爵位や華族制度についてまとめてみました。

そもそも華族とは?

華族とは、明治2年(1869年)に誕生し、現行の日本国憲法が発行される昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことです。華族は、個人を指すものではなく同一の戸籍に属する人々全体を指す階級制度となっています。

明治11年には「華族令」が制定され、華族が公爵を第一として侯爵、伯爵、子爵(こしゃく)、男爵の5つ爵位に分けられることとなります。爵位は戸籍筆頭者だけが名乗ることができ、たとえ家族であっても爵位を名乗ることはなく、爵位を後継に譲れば、その瞬間から爵位は新しい戸主のものとなります。

 

華族はいつできたの?華族の成り立ち

明治になり、華族という言葉が公式に使われるようになったのは、明治2年6月17日の「版籍奉還」が行われた日になります。

版籍奉還とは?

版籍奉還は、諸藩主が天皇に「版」である土地と「籍」である人民を返還した政治改革となっています。

版籍奉還は、諸藩領有権の天皇への統合、藩主の非世襲知事化、藩主・藩士の主従関係の否定、身分制・禄制(ろくせい)の大改革などが行われ、従来の士農工商などの法権的身分を廃した政策となっています。

 

しかし一方で、当時の中央政府の行政機構だった行政官は、次のような布告を出しています。

「官武一途上下共同の思し召しを以て、今より公卿、諸侯の称を廃せられ、改めて華族と称すべき旨、仰せ出られ候こと。ただし官位はこれまで通り為すべく候こと。」

これは、従来公卿(くぎょう)・諸侯と呼ばれた身分を華族という名称に一括して新しい一つの特権階級としてまとめるという宣言でした。

「公卿(くぎょう)」とは

公卿とは平安時代から呼ばれる名称で、公家(くげ)の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議らの高官を指します。

「諸侯」とは

諸侯は、江戸幕府に直接臣下として従い表高万石以上の武家であった貴族のことです。江戸時代には大名とも呼ばれることもありました。

 

華族制度の目的

華族制度の主な目的は、華族世襲財産法により天皇に功績のある一族の財産を保護することです。

一方で、国民の贔屓にされる人物であるため、華族制定に関わった明治天皇や三条実美、伊藤博文は「ノーブレス・オブリージェ(高貴なも者の義務)」を果たすことを望んでいました。そのため、明治40年に明治天皇は華族に対し海外留学を奨励した勅語を出し、進んで海外留学に行くなどをして知見を広めてもらうことなどを勧めています。

 

明治17年の「華族令」の制定

「華族令」は明治17年7月7日に公布された勅令で、全十ヵ条からなります。こちらは、爵位や叙爵に関する以下のような規定が中心となっています。

・爵位は天皇が授けるものであること(第一条)

・爵位は公侯伯子男の五つに分けること(第二条)

・女性は爵位をもてないこと(第三条)

華族令の爵位決定については、当初は伊藤博文や三条実美の影響力が大きかったようです。

左:伊藤博文 右:三条実美

左:伊藤博文 右:三条実美

 

爵位とはどのようなもの?公侯伯子男のそれぞれの基準とは?

爵位とは華族令により制定された「華族間の順位」のことです。公爵を第一として侯爵、伯爵、子爵(こしゃく)、男爵となっています。

では、公侯伯子男の爵位のそれぞれの基準はどのようになっているのでしょうか。以下は、華族の爵位とその基準となります。

爵位「公爵」について

華族令による「公爵」の基準は以下のようになります。

皇族より将来臣位に列せられるべき家、旧摂家、徳川宗家、旧琉球藩主、国家に勲功あるもの

従って、公爵には、徳川慶喜・徳川家達や三条実美(偉勲を評価され位上げ)、のような人物が該当します。後には、総理大臣となる伊藤博文をはじめ、山縣有朋や西園寺公望といった人物も公爵に陞爵(位上げ)されています。

爵位「侯爵」について

華族令による「侯爵」の基準は以下のようになります。

旧清華及び大臣家、旧徳川家、旧国主、旧摂家門跡にて既に還俗したる者、国家に勲功あるもの

侯爵には、文京区のなかでも前田家や、肥後細川庭園で有名な細川家が該当します。

爵位「伯爵」について

華族令による「伯爵」の基準は以下のようになります。

旧公卿中大納言に昇りし家、旧現高十万石以上の藩主(旧中藩知事)、旧徳川卿

勲功により伯爵を与えられるものもおり、松方正義や山縣有朋は華族令の制定当初は伯爵の地位でしたが、陞爵(位上げ)により公爵へと地位が上がりました。

文京区では、江戸時代老中として有名な阿部正弘の子孫阿部正直が伯爵の称号を授かっています。

爵位「子爵」について

華族令による「子爵」の基準は以下のようになります。

旧公卿中中納言に昇りし家及三位以上に昇りし家格の者、旧現高十万石未満藩知事たりし家(旧小藩知事)

文京区でも千駄木にある大給坂は子爵・大給 恒の敷地にあったことでも有名です。その他にも実業家では異例の人物として、渋沢栄一が公共事業への功績が認められたことにより三井・三菱から1ランク上の子爵となっています。

爵位「男爵」について

華族令による「男爵」の基準は以下のようになります。

旧公卿中四位以上の家格の者、新華族・旧堂上・旧武家・神官・僧侶・士族・地下官人、旧琉球王族

三井財閥の三井物産の創立者で有名な益田孝も大正7年に男爵を授かりました。現在は文京区の護国寺にお墓があります。また、三菱二代目の岩崎弥之助も男爵となっています。

 

文京区に所縁のある華族

文京区でも馴染みの深い華族の方がいますので少し紹介します。

文京区に所縁のある「公爵」

まずは華族として最も位の高い人物が、言わずと知れた、江戸時代徳川幕府最後の将軍「徳川慶喜(よしのぶ)」です。

徳川慶喜

徳川慶喜

徳川幕府最後の将軍である徳川慶喜(1837~1913)は、水戸徳川藩主斉昭(なりあき)の七男として、小石川の上屋敷(現在の小石川後楽園一帯)で生まれました。

一橋家の家督を継ぎ、慶応2年(1866年)に第15代将軍に就任します。大政奉還後には、明治30年(1897年)東京に戻り、明治34年(1901年)現在の文京区国際仏教大学院跡地に移り住みました。慶喜は、のちに公爵、勲一等旭日大綬章を授けられています。

徳川慶喜の他にも公爵となった三条実美や第3代・第9代総理大臣である山縣有朋といった人物は、文京区の護国寺にお墓があります。

 

文京区に所縁のある「侯爵」

文京区に所縁のある侯爵の家系には、前田家と細川家があります。

「前田家」の本郷の敷地について

江戸期の本郷一帯には、約10万4千坪もの敷地をもつ「加賀藩前田家上屋敷」がありました。

明治に入り、このうち約9万1千坪が「旧・東京大学(東京帝国大学)」の敷地となり、残りの約1万3千坪、敷地の南西側一帯は、侯爵となった前田家の屋敷地として引き続き使用されます。

しかし、大正15年(1926年)に「東京帝国大学」の本郷の敷地が手狭になったことから、駒場にあった農学部の土地の一部と、本郷の「前田邸」の土地を交換することになり、昭和3年(1928年)に敷地内の建物も含め、「東京帝国大学」が所有することとなりました。

「細川家」について

現在の目白台一丁目周辺は、江戸期には「熊本藩細川家抱屋敷」「豊岡藩京極家下屋敷」「安志藩小笠原家下屋敷」など、武家の別荘的な屋敷が置かれていました。明治期に入り、この辺りは侯爵となった「細川家」が買い占め細川家の邸宅地となります。

現在では「細川邸」の跡地は、「和敬塾」「目白台運動公園」「肥後細川庭園」「永青文庫」などになっています。

肥後細川庭園

肥後細川庭園

文京区の所縁のある「伯爵」

文京区に所縁のある伯爵としては「阿部正直(まさなお)」がいます。

阿部正直は、福山藩(現在の広島福山市)阿部家11代当主で、阿部家は江戸時代に開国の筆頭となった老中の阿部正弘を先祖にもつ有名な家系となっています。

阿部正弘について

阿部正弘は、江戸時代末期の福山藩第7代藩主です。江戸幕府の老中の首座を務め幕末の動乱期に安政の改革を実行した人物です。この他にも阿部正弘は、人材育成のために藩校を造り身分の上下なく教育を行いました。

現在では、阿部家の中屋敷のあった文京区西片には文京区立誠之小学校阿部公園(西片公園)などの由来する施設が残っており、東大入学者の多い学問の盛んな地域としても有名です。

また、文京区白山にある白山神社は、阿部家の氏神となっており昭和3年(1923年)には阿部家より応接間三室が寄贈されています。

誠之小学校(せいししょうがっこう)

誠之小学校は、明治8年に阿部家から資金、敷地を一部譲り受けるなどをして開校しました。名称は福山藩の藩校「誠之館(せいしかん)」に由来しています。

 

華族制度まとめ

いかがだったでしょうか。今回は、明治から80年近く続いた華族制度についてまとめてみました。GHQによる財閥解体や日本国憲法の制定とともに消滅してしまった華族制度ですが、日本や文京区の歴史を知る上では欠かせない制度だったようですね。文京つーしんではこのほかにも皆様の役に立つ情報を配信しておりますので、引き続きよろしくお願いします。

 

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