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一橋徳川家ってどんな家系?文京区と徳川家①

投稿日:2020/10/31by 
文京区と一ツ橋徳川家

文京区の千石には「千石緑地」という樹林地があります。こちらの「千石緑地」元は一橋(ひとつばし)徳川家の所有地だったもので、現在は寄付され一般の方でも入ることができるようになっています。また一橋徳川家は明治の政治家であり日本実業家の祖である渋沢栄一との関わりもあります。そこで今回は、この「一橋徳川家」とはどのような家系であったのかまとめてみました。

 

そもそも一橋徳川家の「一橋(ひとつばし)」ってどこのこと?

現在一橋(一ツ橋)は大学や地名でも有名ですね。一方で、東京のどのあたりをさすのかを詳しくは知らないかたもいるかと思うので、この「一ツ橋」を見ていきましょう。

東京都一ツ橋地区

一ツ橋は東京都千代田区にある以下の地区になります。

現行の行政地名は一ツ橋一丁目と一ツ橋二丁目となっており、一ツ橋一丁目が麹町地域、二丁目は神田地域に分かれています。

また日本橋川(一ツ橋川)と白山通りにかかる橋の名前も「一ツ橋」となっています。

東京都一ツ橋

一ツ橋は、現在高速道路のインターチェンジにもなっているので車を利用する方にはおなじみかもしれませんね。

一ツ橋インターチェンジ

この辺りは、地名としては有名なのですが高速道路や学校などといった公共機関以外あまりないため、意外と利用する方は限られています。また、近くには皇居や千代田区役所、神田税務署があるので意外と一ツ橋であることを知らずに素通りしている場合もあります。

白山通りと一ツ橋エリア

 

一橋徳川家とは?徳川家からみるルーツと分類

では、一橋徳川家を見る前に徳川家の家系を見てみましょう。

徳川家の家系

江戸時代は、家系が重視された時代ですので「家系」や「跡継ぎ」というテーマを一つの目安としてみることができます。

一つ目が本家と呼ばれる「徳川家康」直系の血筋があります。その下に、家康の子を祖とする「御三家」と、家康の子の兄弟を祖とする「御三卿(ごさんきょう)」に分けられます。

 

「徳川御三家」ってどんな家系?

「徳川御三家」は、徳川家康の子を祖とする家系で、尾張藩(尾張徳川家)、紀州藩(紀州徳川家)、水戸藩(水戸徳川家)に分けることができます。

徳川御三家「尾張藩」(尾張徳川家)

尾張藩は、徳川家康の九男「徳川義直(よしなお)」を祖とする家系で石高62万石(資産価値620億円程度)の家系です。

徳川御三家「紀州藩」(紀州徳川家)

紀州藩は、徳川家康の十男「徳川頼宣(よりのぶ)」を祖とする家系で石高56万石(資産価値520億円程度)の家系です。

徳川御三家「水戸藩」(水戸徳川家)

水戸藩は、徳川家康の十一男「徳川頼房(よりふさ)」を祖とする家系で石高35万石(資産価値350億円程度)の家系です。文京区のなかでも小石川後楽園は水戸藩とゆかりのある場所で水戸黄門でも知名度がありますね。

文京区小石川後楽園

 

「徳川家御三卿(ごさんきょう)」ってどんな家系?

もう一つは徳川御三卿として分類される家系です。徳川家康の子どもの兄弟が始祖となっており、御三家に次いで将軍の継承順位が設けられています。また、それぞれの家系が領土は石高10万石(資産価値100億程度)となっており、領土が数ヶ所に分散しているため独立した藩は持っていないないことも特徴といえます。

「徳川御三卿」は、田安家(田安徳川家)、一橋家(一橋徳川家)、清水家(清水徳川家)に分けられます。

 

徳川御三卿のひとつ一橋徳川家とは?

では今回の本題の御三卿の一橋徳川家とはどのような家系なのでしょうか。

一橋家は、江戸幕府八代将軍徳川吉宗(よしむね)の四男である宗尹(むねただ)を家祖とする家系です。その他の御三卿と同じく領地は十万石(資産価値およそ100億程度)であり、武蔵、下野、甲斐、和泉、薩摩、備中の八か国二十二郡に分かれていました。

一橋家で有名な人物には、「徳川慶喜(よしのぶ)」がいます。彼は、後に江戸幕府最後の将軍となり大政奉還を行ったことでも有名ですね。

家名の由来となった屋敷、一橋邸は江戸城一橋門内、現在の千代田区大手町1丁目4番地付近にありました。

 

一橋家相続と徳川慶喜(よしのぶ)について

徳川慶喜イメージ

一橋慶喜(徳川慶喜)は、江戸時代最後の将軍として大政奉還を行ったことで有名ですが、実は一橋家の血筋ではありません。

一橋慶喜は御三家である水戸藩徳川斉昭(なりあき)の七男として水戸藩江戸屋敷で生まれました。幼少期には「七郎麻呂(幼名)」とよばれ、将来の将軍候補とされるほど聡明だったようです。また、少し大きくなると「松平昭致(まつだいらあきとも)」と名乗っていたようです。

1847年8月、慶喜が10歳ごろに老中・阿部正弘(あべまさひろ)が「昭致(あきとも)を御三卿である一橋家の跡継ぎとしたい」といった第12代将軍徳川家慶(いえよし)の意向を水戸藩へ伝達しました。その後、慶喜は一橋家の養子となり「一橋慶喜」と名前を変えます。さらに同年12月1日には家慶から偏諱(へんき)を授かり「徳川慶喜」と名乗ることとなりました。

江戸時代に将軍などが功績があった人物に自分の名前を渡す「偏諱(へんき)」という名前の渡し方は結構迷いますね。苗字が「徳川」になった時点で将軍になったのかと思ってしまいます。

 

一橋徳川家と渋沢栄一の関係

渋沢栄一に関する記事はこちら

渋沢栄一の一万円札イメージ

渋沢栄一と徒弟の喜作は、倒幕運動に頓挫したのち故郷を追われて幕府の士官として働く時期があります。一橋家用人の平岡円四郎に誘われ渋沢は、渋沢篤太夫と名乗り士官として藩士募集や他藩との交渉役、領内の経営などを行いました。

一橋家家臣として京都を中心に活動した渋沢にとって、西郷隆盛、木戸孝允など幕末維新に活躍する各藩藩士と知りあいながら藩の経営に関わったことは、江戸時代の政治、経済、社会の複雑な仕組みを学ぶ上で大きな役割を果たしたといえそうですね。

また、徳川慶喜に仕え幕臣(ばくしん)と呼ばれる地位まで上りつめた後にも、後のヨーロッパの経済社会の仕組みを理解するうえで重要な経験となったことがわかります。

 

まとめ

いかがだったでしょうか。このように徳川家の一派である一橋徳川家だけをみても明治時代への先駆け、さらには現代日本の歴史の中で大きな影響があったことが伺えますね。文京区には伝通院、小石川後楽園をはじめ徳川家にまつわるものが多くあります。それらに関わっている家系がどのようなものか少しでもつかめたら幸いです。文京つーしんでは皆様に役立つ情報をお送りしておりますのでよろしくおねがします。

 

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