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東京大学の前身の昌平坂学問所ってどんなところ?湯島聖堂で武士が受験?

投稿日:2020/12/12by 
東京大学の前身の昌平坂学問所ってどんなところ?湯島聖堂で武士が受験?イメージ

東京都文京区湯島にある湯島聖堂や旧昌平坂学問所が、東京大学の前身であったことは有名です。現在では史跡としてその原形が残っているだけなので詳しく知らないというかたも多いのではないでしょうか。そこで今回は、この「湯島聖堂」と「昌平坂学問所」についてまとめてみました。

 

湯島聖堂、昌平坂学問所ってどこにあるの?

まず、この湯島聖堂と昌平坂学問所の場所についてです。

住所は東京都文京区湯島1−4−25となっています。

湯島聖堂の近くには、神田明神もあり文京区と千代田区の境目のような場所にあります。

湯島聖堂アクセス

湯島聖堂の行き方は、丸の内線の御茶ノ水駅から外堀通りを秋葉原のほうへ歩いていくと着きます。JRでは中央線・総武線の御茶ノ水駅から神田川にかかる聖橋を渡って昌平坂に合流することもできます。

 

昌平坂学問所・湯島聖堂とはどのような場所なの?

昌平坂学問所は、東京大学の母体となった学問所です。現在は史跡の「湯島聖堂」として一般の方にも開放されています。

「近代教育発祥の地」とされており、今でも年間を通して参拝客が訪れる史跡となっています。特に受験シーズンには合格祈願のために、多くの受験生やご家族の姿がみられます。また、昌平坂学問所があった場所は湯島聖堂から本郷通りを渡った聖橋の場所だったようで、現在でもこの場所には立て札があります。

 

現在の湯島聖堂について

大成殿と孔子蔵と人徳門イメージ

左から大成殿、孔子像、人徳門

現在の湯島聖堂には、大成殿をはじめ孔子銅像や人徳門などがあります。

湯島大聖堂の大成殿(たいせいでん)

大成殿は土日や祝日に中を開放されていることがあり、入場料を払うと中を見ることができるようになっています。大成殿内には中央に孔子像。西側に曽子・孟子像、東側に顔子・子思の四賢人が祀られています。

孔子と四賢人について

孔子は、中国の山東省出身であり、紀元前552年から紀元前479年の春秋時代に活躍した儒家の祖・思想家・学者・教育者となっています。孔子中心思想は「仁」、その言行録とされるのが「論語」となっています。
孔子の周囲に祀られている四賢人は、孟子の「性善説」や子思の「中庸」といったように儒家や独自の思想を春秋時代や後の戦国時代に築いて行った人物になります。

 

中国の孔子の思想や儒学が取り入れられるようになった背景

では、なぜ中国の思想や儒学が取り入れられるようになったのでしょうか。

江戸時代、幕府や藩は支配者層である武士に対して、儒学の知識と教養を身に付けさせることによって士農工商という身分的秩序を維持しようとしました。その学習施設として幕府が設置したのが「昌平坂学問所」であり、各藩が設置したのが藩校(はんこう)です。

明治の湯島聖堂

上の写真は明治17年に撮影された湯島聖堂の様子です。写真の赤丸の箇所が、湯島聖堂の大成殿の屋根になります。中央に「東京高等師範学校」、左奥に「東京女子師範学校」が見えます。神田川を挟んだ手前側には駿河台の元武家屋敷が立ち並んでおり、江戸時代には多くの武士たちがこの昌平坂学問所に集まっていたことがわかりますね。

江戸時代18世紀以降、藩政改革における人材育成という観点からほとんどの藩に「藩校」が設置されました。そのため、武家に生まれた子どもの多くはこれらの学校に通うことによって儒学を学ぶ際の基礎となる漢文についての素養を高めました。その際に教科書として使用されたのが、大学・中庸・論語・孟子の四書と、易経・書経・詩経・礼記・春秋の五経からなる四書五経と呼ばれる儒学の基本的な教えが記された書物でした。

この藩校として有名なのが水戸の「弘道館」です。弘道館の入学には試験がありこのころから武士の受験勉強というものが始まったようですね。

 

昌平坂学問所ではどのようなことが行われていたのか。

文京区湯島にあった昌平坂学問所は、もともと儒学者として徳川将軍家に仕えた林羅山(はやしらざん)を祖とする林家の家塾でしたが、18世紀に行われた「寛政の改革」(1787~1793)によって幕府の官立学校となります。これ以後幕府は、昌平坂学問所のほかにも医学や和学や洋学を教える学校を城の周辺に設置し、幕臣だけでなく全国の藩士もこれらの学校で学ぶことが出来るような教育体制を作り上げていきました。

江戸時代でもあった学力試験

この昌平坂学問所でも定期的に学力試験が行われました。
「素読吟味」は15歳未満の年少者あるいは17歳から19歳までの子弟を対象とする試験で、毎年10月、幕府の学問所である昌平坂学問所で実施されました。担当の目付や大学頭、学問所の教授が列席する試験場で子どもたちは四書五経の指定された箇所を高らかに音読しました。

幕府を支えた受験エリート

「素読吟味」が初級者の学力試験だとすれば、同じ昌平坂学問所で数年に一度行われる「学問吟味」は、上級者の試験と言えます。

「学問吟味」は「予備試験」と「本試験」に分かれ、「予備試験」で四書五経や小学の試験を行い、合格者が「本試験」に進み、「経義科」「歴史科」「文章科」の試験を受けました。試験は数日間にわたり、成績優秀者には褒美が与えられました。

「学問吟味」が寛政の改革の一環として最初に実施されたのは、1792年(寛政4年)であり1794年(寛政6年)に第2回が行われました。旗本では遠山金四郎景晋(「遠山の金さん」の父)、御目見以下では大田南畝(おおたなんぽ)などが受験し優秀な成績で褒賞されています。

大田南畝は文京区でも有名な文人かつ武士ですね。以前に文京つーしんでも取り上げていますのでよければこちらをご覧ください。

 

明治維新後の「昌平坂学問所」について

江戸時代には儒学中心の学問が主流でしたが、明治維新後の日本の学問の主流は儒学から洋学へと移り変わることになります。そのため、明治維新後は旧幕府管轄であった「昌平坂学問所」と洋学教育研究所であった「開成所」「医学所」を統合して「大学校」を建設することになります。

こちらの「大学校」は明治4年に「東京開成学校」「東京医学校」となり、これらが合同することで1877年(明治10年)に文部省管轄の東京大学が創立されることとなります。

そのため、現在の湯島聖堂を訪れても「孔子の思想」と「近代教育」との接点などを疑問に思うかたも多いと思います。江戸時代から明治にかけての時代の変化が、教育についていかに大きな変化を及ぼしたのかがわかりますね。このように歴史をみていくとなぜ湯島聖堂が「史跡」として残っているのかや、受験生の合格祈願の場所となっているのかなどが理解できるのではないでしょうか。

 

湯島聖堂のまとめ

いかがだったでしょうか。今回は「昌平坂学問所」並びに「湯島聖堂」についてまとめてみました。「受験」という概念が江戸時代の武士の中にもあったと知ると面白いですよね。また、現代でも孔子の「論語」など儒学の思想も盛り上がってきているテーマなので気になりますね。文京つーしんでは、このほかにも皆様の役に立つ情報を配信しておりますのでよろしくお願いします。

 

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