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春日の名前の由来となった春日局とは?文京区の歴史について

投稿日:2022/01/29by 
春日の名前の由来となった春日局とは?文京区の歴史について

ご存知の通り、文京区にある「春日」の地名は江戸時代の春日局(かすがのつぼね)に由来します。文京区の中でも商業地として有名な春日ですが、名前の由来となっている春日局が具体的にどのような人物であったのか知らない人も多いのではないでしょうか。そこで今回はこの春日局という女性や春日の歴史についてまとめてみました。

 

文京区の春日とはどのような地域?

文京区の春日の始まりは、昔は野原であったこの地域を寛永7年(1630年)に三代将軍徳川家光の乳母である春日局が、幕府に願い拝領し、お付きの者30人の住まいとしたことに始まります。この春日局が拝領した土地は、古くは春日殿町と呼ばれ、のちに春日町(かすがちょう)と呼ばれるようになりました。

春日町は昭和39年(1964年)までの町名となっていますが、現在でも白山通りと文京シビックセンターがある春日通りとの交差点は「春日町交差点」として名残があります。

文京区春日町交差点

春日町交差点

 

春日局はどんな人物?

では、春日の由来となっている春日局はどのような生い立ちの女性だったのでしょうか。

春日局の生い立ち

春日局は、安土桃山から江戸時代の女性で、幼名は斎藤福(以下、福)となっています。

春日局

春日局

福の父は明智光秀の重臣である斎藤利三、母は稲葉良通の娘である安です。福は兵庫県丹波の出身ですが、父が武士であったため過ごす場所は時より変わっていたようです。そのため、母方の親戚の三条西公国によって養育される際には、公家の素養である書道・花道・香道などの教養を身につけることができたとされています。

成人した後に福は、小早川秀秋に仕えた稲葉正成(まさなり)と結婚します。

福は、慶長2年(1597年)に京都で長男である正勝を生み、慶長8年(1603年)に三男である正利を出産します。しかし、三男の出産後に福は正成と離婚し、子どもをつれて母と暮らすこととなりました。離婚後に福は女・子どもの家系となってしまったため、この時期は非常に貧しい暮らしを強いられていたようです。

 

春日局は何をした人物?

次に、春日局が何をした人物なのかについてみていきたいと思います。春日局が行ったことは主に以下の4つです。

① 徳川家光の乳母

② 「大名証人」のうち女性に関するものを扱う

③ 大奥の総取り

④ 天皇家との交渉役

では、それぞれの内容ついてみていきましょう。

① 徳川家光の乳母について

春日局が徳川家光の乳母として知っている方は多いのではないでしょうか。

春日局(以下、福)は、慶長9年の26歳の時に民部卿局の推薦で徳川家光の乳母になります。この時には、福の長男である正勝は7歳になっており、家光の雑用係や親衛隊としての役割を持つ小姓(こしょう)として母と共に仕えることになりました。

家光の乳母となってからは、秀忠とお江の方が次男である忠長を可愛がり、長男であるはずの家光の嫡子決定を先延ばしにしていることを直談判するために、家康のところへ直談判するなど、非常に家光の身辺や江戸の世を考えた行動をしていたようです。

② 「大名証人」のうち女性に関する事項を扱う

家光が成人してからは、「大名証人」に関する仕事をあてられました。

江戸時代にあった参勤交代制度では、諸大名は「正室」と「後継ぎ」を江戸に常駐させなくてはならない決まりがありました。「大名証人」とは、この各大名家から徳川家に差し出すこの「正室」「後継ぎ」の人質のことを指します。この大名証人を江戸に置くことによって幕府は、諸藩が幕府に対し反乱などを起こさないようにしたとされています。このような「大名証人」のうち女性に関することがらを福が担当することになりました。

③ 大奥の総取りについて

寛永3年(1626年)、当時48歳になる福は、大奥の統率という大役を任されます。

大奥とは、将軍家の妻や子ども、女房、側室がいる場所を指します。表の政治の場とは切り離された将軍の私生活の場ともされています。

本来は、奥は正室である将軍の妻が取り仕切ることになっています。しかし、寛永3年(1626年)には二代将軍である徳川秀忠の正室である「お江の方」が亡くなっており、三代将軍徳川家光の正室は公家の鷹司信房(たかつかさ のぶふさ)の娘でした。

しかし、純粋な武家政権であった江戸時代では天皇と公家の行動を規制する政策がなされており、政治に公家の影響力を及ぼさないようにしている時代でした。そのため、家光の正室である鷹司孝子(たかつかさ たかこ)には、大奥の統率は認められず、代わりに家光に仕えていた福が抜擢されます。

この大奥での話は小説やテレビドラマなどでもよく知られていますね。

④ 天皇家との交渉役

福が「春日局」として局名をもらうのが、「御乳母」として天皇家に挨拶をした際になります。

元和6年(1620年)に御水尾天皇(ごみずのおてんのう)の正室となった徳川和子は徳川家光の娘であり、この二人の間には、元和10年(1624)年に娘・興子(おきこ)が生まれていました。

福は興子の「御乳母」として選ばれたのですが、後水尾天皇は前例を無視した無位無官での天皇への拝謁強行などから幕府への不満を爆発させ、1629年には娘の興子へ天皇の座を譲位をするということが起きました。

この際に福は、自分の母方の親戚であり、公家であった三条西家の援助により「春日局」という局名をもらうことが許されました。寛永6年(1632年)にようやく「御乳母」として福が上洛し、「春日局」という局名で参内を許され、明正(めいしょう)天皇に挨拶することとなります。

明正天皇

明正天皇

春日局の誕生は、自分が乳母となる「明正天皇である興子」への挨拶という一風変わった例外から誕生したといえそうですね。

 

春日局と文京区の春日について

このように春日局の人生をみていくと寛永7年(1630年)に春日局が徳川家光から「春日御殿」となる土地を拝領したのは先ほどみてきた仕事が終わった後にいただいたことがわかります。そのため、一般的に知られている徳川家光の乳母だったから春日局の名前が付いていたというよりは、当時の幕府と公家の間を取り持つ仕事ぶりからこの土地をいただいたことが窺えます。

 

文京区と春日局

文京区には天皇の正室を納めている伝通院と春日局を納めている麟祥院があります。どちらも江戸時代の女性と関わりが深い寺院となっています。

麟祥院

文京区湯島4丁目にある麟祥院は春日局の菩提寺であり、春日局のお墓があります。また、令和元年まで文京区春日駅の隣の礫川公園にあった春日局像が現在はこちらに移されています。

春日局のお墓

春日局のお墓

伝通院

伝通院は徳川家の菩提寺であり、正室の女性や子どもにまつわる神社となっています。徳川家康の母である「於大の方」をはじめ、今回の記事でも取り上げた二代将軍秀忠の妻「お江の方」、三代将軍家光の妻「孝子の方」など当時、春日局と関係の深かった人物のお墓があります。

伝通院

 

まとめ

いかがだったでしょうか。春日の由来となった春日局という女性は武家政権であった江戸時代に徳川家と公家の間を取り持つなど非常に多くの貢献をしてきたことがわかりますね。今後は春日を利用するたびさらに感謝の気持ちが増しそうです。文京つーしんでは皆様の役に立つ情報を配信しておりますので引き続きよろしくお願いします。

 

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◼︎ 詳細情報

麟祥院施設情報

伝通院について

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