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森鴎外ってどんな人?文京区千駄木の森鴎外記念館について

投稿日:2022/02/26by 
森鴎外ってどんな人?文京区千駄木の森鴎外記念館について

文京区千駄木は、夏目漱石や川端康成といった文人が居を構えたことのある地域で、現在でも下町として人々に親しまれています。そこで今回は、文京区千駄木にある森鴎外記念館やこの記念館の名前にもなっている森鴎外についてまとめてみました。

 

森鴎外はどのような人物?

森鴎外(1862〜1922年)は、明治から大正にかけて活躍した医者・文人です。初めに森鴎外の生い立ちからどのような人物なのか見ていきましょう。

森鴎外の生い立ち

森鴎外の実家は、現在の島根県津和野町にある御殿医(ごてんい)あるいは藩医と呼ばれる大名や藩に所属する医師の家系でした。そのため、森鴎外も幼い頃から勉強熱心で漢籍や論語を学び秀才として知られていました。

鴎外が10歳の時に、父と共に上京します。その後鴎外は、11歳の時に東京医学校(現:東京大学医学部)の予備教育課程である第一大学区医学校に入学しました。この第一大学区医学校に入学する際に、鴎外は本当は11歳でありながら13歳として入学したという逸話も残っています。

明治14年(1881年)に医学校卒業後は軍医として陸軍へ入ります。明治17年(1884年)鴎外が22歳の時にドイツ留学を果たし、帰国後はさまざまな講師の傍ら外国文学の翻訳や執筆活動に取り組みました

その後は、現在でも知られているような小説家としての執筆活動や軍医として日本を代表する人物となっていきます。執筆の代表作では「舞姫」「渋江抽斎」「うたかたの記」などが有名ですね。

 

森鴎外記念館について

文京区千駄木には、森鴎外の旧居である「観潮楼(かんこうろう)」跡地に文京区立森鴎外記念館があります。観潮楼は、森鴎外が明治25年(1892年)から60歳で亡くなる大正11年(1922年)まで家族と共に暮らした場所でした。

森鴎外記念館

森鴎外記念館

現在の森鴎外記念館は、森鴎外に関する資料を中心した展示会などが度々開かれており、そのほかにも図書館やカフェ、ミュージアムショップなどがあります。

 

森鴎外記念館の文京区の住所・アクセス

次に、森鴎外記念館の住所をみていきましょう。森鴎外記念館の住所は、東京都文京区千駄木1-24-4となっています。

団子坂上から入ることもでき、汐見坂方面には第八中学校や汐見小学校があります。

森鴎外記念館へのアクセス

森鴎外記念館までのアクセスは以下のようになります。

【電車の場合】

東京メトロ千代田線「千駄木駅」徒歩5分

東京メトロ南北線「本駒込駅」徒歩10分

都営三田線「白山駅」徒歩15分

JR山手線「日暮里駅」徒歩15分

【バスの場合】

都バス草63番系統「千駄木一丁目」徒歩1分

都バス上58番系統「団子坂下」徒歩5分

コミュニティバスB-ぐる千駄木・駒込ルート「19特養ホーム千駄木の郷」徒歩5分

森鴎外記念館までは、団子坂からいくルートが一番わかりやすいかと思います。

 

多才な才能を持つ森鴎外

では、森鴎外の経歴について少し見てみましょう。森鴎外は作家以外にも軍医や翻訳家、評論家としても活躍しています。

軍医としての森鴎外

森鴎外の最初の仕事となったものは軍医でした。

当初鴎外は、プロイセン王国(現:ドイツ)の陸軍衛生制度に関する文献調査を行い、その後留学中においてはドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるなど医師として活躍しました。そのような経歴を活かし、軍医として清戦争や日露戦争といった有事の際には出兵しています。

明治40年(1907年)には、陸軍軍医総督(中将)に昇進、陸軍省医務局長に就任するなど軍医としてもトップになっています。医務局長を辞任した大正6年(1917年)には帝室博物館総長兼図書頭にも任命されました。

翻訳家としての森鴎外

森鴎外は、医者・文人として知られる一方で、巧みな語学力を活かして翻訳家としても活躍しています。森鴎外が翻訳したものはアメリカ、ドイツ、ロシア、フランス、オーストリア、ベルギー、スウェーデンの小説に渡り40編近くにも及ぶとされています。

森鴎外が翻訳した小説の一例としては、以下のようなものがあります。

・ゲーテ 『ファウスト』

・アンデルセン 『即興詩人』

・ワイルド 『サメロ』

この軍医や翻訳家としての立場は必ずしも自らの創作活動に良い影響ばかりだったわけではなく、この多才であるための時間的な制限や立場上のしがらみなどは、鴎外の作品に大きな影響を与えているとされています。

 

文京区の著名人との繋がり

森鴎外は、文京区の著名な人物との繋がりがあったことも知られています。ここでは、山縣有朋、夏目漱石、樋口一葉を取り上げてみました。

山縣有朋と森鴎外の繋がり

森鴎外は、山縣有朋の意を受け、明治39年(1906年)に山縣有朋の歌会である常盤会を起こしました。この歌会は山縣有朋の死まで185回続き、山縣有朋の邸宅であった文京区の椿山荘や神奈川県にある別荘の古稀庵(こきあん)などで開かています。

山縣有朋

山縣有朋

夏目漱石と森鴎外

現在の向丘2丁目にある日本医科大学同窓会館のある位置には夏目漱石旧居住跡の石碑が建てられています。

実はこの場所は、森鴎外が千朶山房(せんださんぼう)と呼び、明治23年10月から25年1月まで住んだ場所でもあります。その後、イギリス留学から帰った夏目漱石が明治36年から3年間住むこととなりました。

千朶山房

千朶山房

夏目漱石と森鴎外は共に同世代の文人であるため、度々取り上げられ比較されることがあります。

夏目漱石の文学が人生に対して余裕を持ち、世俗的な気持ちを離れてゆったり自然や芸術を眺める「余裕派」と呼ばれるのに対し、森鴎外の作品は医者(軍医)、翻訳家、執筆家と多彩である鴎外自身が感じていた優秀であるが故の矛盾や葛藤、世間のしがらみをテーマにすることが多いとも言われます。

樋口一葉と森鴎外の繋がり

文京区の著名人といえば女性小説家の樋口一葉がいます。

樋口一葉

樋口一葉

樋口一葉が明治29年(1896年)4月10日に文芸雑誌「文芸倶楽部」に代表作「たけくらべ」が一括して再掲載された際、森鴎外主催の文芸雑誌「めさまし草」の「三人冗語」にて森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨の3人が樋口一葉を高く評価しました。それにより、樋口一葉の知名度が広く知れ渡ったとされています。

文芸雑誌「めさまし草」では鴎外は以下のような文を残しています。

「吾はたとへ世の人に一葉崇拝の嘲あざけり を受けむまでも、この人に誠の詩人といふ称を惜しまざるなり・・・」

明治・大正時代の著名人が多い文京区では、一人の人物を知っていくと様々な文京区に所縁のある人物とのつながりが見えてくるのが面白いですね。

 

『青年』の散歩道

文京区の千駄木や根津周辺のエリアには森鴎外の書いた小説『青年』に描かれている散歩道があります。

『青年』の散歩道

東京メトロ南北線「東大前」駅から始まるこの小説は、主人公小泉純一が「東京方眼図」という鴎外が立案した地図を片手に知人を訪ねて以下のルート歩くというものとなっています。

「青年」の散歩道

青年の散歩道

文京区にお住まいの方や小説の雰囲気を少しでも味わってみたい方は一度歩いてみてはいかがでしょうか。往復は少し無理そうですが、当時の雰囲気を味わえる気がしますね。

 

「森鴎外について」まとめ

いかがだったでしょうか。文芸にはあまり詳しくない方でも、文京区内での森鴎外のゆかりの地を知ることで作品にも興味が湧いてきそうですね。文京つーしんでは、皆様の役に立つ情報を配信しておりますので引き続きよろしくお願いします。

 

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