東京には、都立9庭園と呼ばれる庭園があります。それぞれの庭園はさまざまな歴史があり、手入れの行き届いた自然豊かな庭園は気軽に四季を感じることができるため、一年を通して多くの観光客が訪れます。そこで今回は、この都立9庭園がどのような庭園なのかについてまとめてみました。
都立9庭園とは
東京都建設局によると、都立庭園は江戸時代から続く歴史と文化が蓄積した貴重な庭園で、国及び東京都の文化財指定を受けている庭園とされています。
では、個々の都立9庭園についてみていきたいと思います。以下の9庭園が都立9庭園に分類されています。
- ・小石川後楽園
- ・六義園
- ・旧岩崎邸庭園
- ・上野恩賜公園
- ・旧古河庭園
- ・日比谷公園
- ・殿ヶ谷戸庭園
- ・旧芝離宮恩賜庭園
- ・清澄庭園
- ・向島百花園
- ・浜離宮恩賜庭園
次に、それぞれの庭園についてみていきましょう。ここでは、文京区や文京区近隣にあるものから取り上げていきます。
小石川後楽園(文京区)
小石川後楽園は、江戸時代を代表する「回遊築山泉水式庭園」です。本来は、水戸徳川家の上屋敷の庭で、初代藩主であった頼房が着手し、二代目の光圀が完成させた庭園となっています。徳川光圀の儒学思想の元に造られた回遊築山泉水式庭園の随所には、西湖や廬山といった儒教の流れを含んだ中国的な趣向が取り入れられています。
小石川後楽園は、昭和27年(1952年)に特別史跡・特別名勝にも指定された大名庭園となっており、水戸黄門ゆかりの名園です。
六義園(文京区)
六義園は、小石川後楽園と並ぶ江戸の二大大名庭園の一つです。こちらの六義園は、5代将軍徳川綱吉の取次ぎ(側用人)であった柳沢吉保がこの地を賜り、7年もの歳月をかけて築園しました、庭園は万葉集や古今和歌集に読まれた名所・旧跡が八十八境として映し出されており、桂離宮の庭園の様式を採用して作られています。
六義園は、三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎によって明治初年に購入された後、昭和13年(1938年)に東京市に寄贈され、関東大震災や東洋大空襲の被害もほとんど受けることのないまま昭和23年(1953年)に特別名勝に指定されました。
旧岩崎邸庭園
旧岩崎邸庭園は、明治時代に三菱3代目社長の岩崎久彌の本邸として建てられた庭園になります。旧岩崎邸は、洋館・和館・撞球室に分かれており、洋館はジョサイア・コンドルの設計で近代日本住宅を代表する西洋木造建築となっています。
明治の文明開花の時期には日本文化の中に洋風文化が入ってくるようになります。この当時は家の中に靴で上がる洋風の土足文化が問題として取り上げられた時代でもありました。岩崎邸のような富豪の家では洋館と和館を合わせて作り、洋館は土足(あるいはスリッパ)、和館は履き物をはかない昔ながらの日本様式を取り入れることで、日本と海外の文化を対等に扱うという当時の岩崎家の対応を垣間見ることもできます。
上野恩賜公園
現在の上野恩賜庭園のある地は、江戸時代には寛永寺の敷地となっていました。しかし、江戸の幕末に起こった戊辰戦争では、寛永寺の敷地内に旧幕軍の彰義隊が立て籠り、官軍が放った火により大部分が消失しました。この戦で焼け野原となった上野に、明治新政府は陸軍病院や陸軍墓地を建設する予定でしたが、オランダ人の軍医アントニウス・ボードウィンは、自然豊かなこの地を人々のための公園にすることを進言します。
その後、明治6年(1873年)に宮内省をへて東京市に下賜され、柴、浅草、深川、飛鳥山と共に日本初の公園となりました。現在では膨大な敷地の中に博物館や美術学校などが集中しており、日本の文化と芸術の聖地と呼ばれています。
旧古河庭園
旧古河庭園は、もと明治の元勲・陸奥宗光の邸宅でしたが、次男が10代財閥のひとつであった古河家の養子になった後、古河家の所有となりました。
庭園は、武蔵野台地の斜面を活かした作りとなっており、北側の小高い丘には洋館が建ち、斜面には洋風庭園、低地には日本庭園を配置しています。北側の洋館と洋風庭園の設計者は、イギリス人のジョサイア・コンドル、低地の日本庭園は小川治兵衛の作庭となっています。
旧古河庭園は、戦後に国へ所有権が移った後、東京都が国から無償で借り受け一般公開されました。その後は数少ない大正初期の庭園の原型を留める庭園となっており、平成18年(2006年)に文化財保護法により国の名勝指定を受けました。
日比谷公園
日比谷公園の地は、幕末までは松平肥前守や萩藩毛利家などの大名屋敷地がありました。明治維新後明治4年(1871年)には、「陸軍操練所」が置かれ、明治18年(1885年)に「陸軍練兵所」となりました。しかし、この頃から東京駅周辺の開発が進んできたため「陸軍練兵所」は、翌年明治19年(1886年)に「青山練兵所」へ移転しました。
明治12年(1879年)頃より進められていた「市区改正」の検討より明治21年(1887年)に周辺の道路整備と合わせ、「日比谷練兵所」跡地の設置に提案されたのが現在の日比谷公園になります。しかし、東京市営初の公園であるためなかなか決定まで至らず、「日比谷公園造園委員会」の設置後、ようやくドイツに留学経験のある林学博士の本多静六らに設計を依頼し、明治35年(1902年)に着工、翌年明治36年(1903年)に開園を迎えました。
そのため、現在の日比谷公園は日本初の西洋式公園として設計された公園となっており、100年以上の歴史と多様な空間や施設のある公園として人々に親しまれています。
旧芝離宮恩賜庭園
旧芝離宮恩賜庭園は、小石川後楽園と共に、現在の東京に残る江戸初期の大名庭園の一つです。庭園は、大名庭園の「回遊式泉水庭園」の典型的な形をもち、変化に富んだ池の形と海水を取り入れていた潮入りの池の名残りなど随所に見える石組が見事な庭園です。
もとは明暦(1655年-1658年)の頃に海面を埋め立てた土地であったものを老中・大久保忠朝が4大将軍家綱から拝領したものとなっています。庭園は、幾人かの所有者を経て明治4年に有栖川宮家の所有となり、同年宮内庁が買い上げ、芝離宮となりました。離宮は、大正12年(1923年)に関東大震災で大きな被害を受けましたが、翌年に昭和天皇のご成婚の記念として東京市に下賜され、園地の復旧と整備が施された後、一般公開されることとなりました。
旧芝離宮恩賜庭園は、昭和54年に文化財保護法による国の「名勝」に指定されています。
浜離宮恩賜庭園
浜離宮恩賜庭園は、江戸時代初期に作られた日本を代表する大庭園の一つです。もとは将軍家の鷹狩の場所であったものを四代将軍家綱の弟の松平綱重が埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てたことから造園、改修工事が行われるようになりました。十一代将軍の時には、ほぼ現在の庭園の姿が完成していたとされています。
明治維新の後には皇室の離宮となり、名前も浜離宮となりました。その後関東大震災や戦災によって当時の建物がなくなりましたが、昭和20年(1945年)に東京都に下賜された後、整備され昭和21年(1946年)に一般公開されることとなりました。
浜離宮恩賜庭園は、昭和23年(1948年)に国の名勝及び史跡に、昭和27年(1952年)に国の特別名勝に指定され、貴重な文化財として、また景勝の地であり緑のオアシスとして都民から親しまれています。
清澄庭園
清澄庭園は、泉水、築山、枯山水を主体にした「回遊式林泉庭園」です。この地の一部は江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられています。享保年間(1716年-1736年)には、下総国関宿の藩主・久世大和守の下屋敷となり、その頃にある程度庭園が形づくられたようです。
明治11年(1878年)になると、三菱の創始者である岩崎弥太郎が荒廃していたこの地を買いとり、社員の慰安や貴賓を招待する場所として造園を始めました。その後、岩崎弥太郎は隅田川の水を引いた大山水を作り、周囲には日本各地の名石を配置するなどをして庭園を完成させました。現在でも庭園内の構想や、庭石の豊富さは明治初期の庭園の中でも屈指のものとされています。
向島百花園
向島百花園は江戸文化が花開いた文化・文政初年(1804年-1830年)ごろに開園した庭園とされています。旗本の多賀氏の屋敷跡に、骨董商を営んでいた佐原鞠塢や江戸の一流の文化人が造った庭園であるため、大名庭園とは異なる庶民的な美しさをもった庭園です。
民営としての百花園は昭和13年(1938年)まで続き、その後所有者が東京市に寄付したため、翌14年(1939年)からは東京市が有料で制限公開を開始しました。
向島百花園は、昭和53年(1978年)に文化財保護法より国の名勝及び史跡の指定を受けています。
殿ヶ谷戸庭園
殿ヶ谷戸庭園は、武蔵野台地とハケの湧水といった自然の地形を存分に活かした「海遊式林泉庭園」です。
この地は大正2年(1913年)ごろに江口定條(後の満鉄副総裁)の別荘として整備され、昭和4年(1929年)に三菱財閥の岩崎家の別邸となりました。その後、昭和49年(1974年)に東京都が買いあげ、整備後に有料庭園として開園しました。
殿ヶ谷戸庭園は崖の上の明るい芝生地と崖下の湧水池、樹林で雰囲気が一変する造園手法が見所となっています。
都立9庭園の短所や長所について
最後に、都立9庭園の特徴についてまとめてみたいと思います。
公園や庭園といえば、区立公園や国立公園など色々ありますが、やはり都立9庭園は区立公園よりは大きく、国立公園よりは小さいです。国立公園は東京都だと小笠原国立公園(6,629ヘクタール)や秩父多摩甲斐国立公園(126,259ヘクタール)と広大な規模の公園がありますが、気軽に行くことはできません。この他にも、山梨県や他県にもありますがどれも車や電車などの交通機関を使い丸一日から数日かけて行くことになります。
その点、都立庭園は山手線やJRなどの駅から近い場所にあるので訪れることも簡単です。また、庭園内は長くても二、三時間あれば全て見ることができるのでちょっと空いた時間にも訪れることができます。この庭園の日本人的なスケール感は、外国の方にも高評価のようです。
短所としては、本格的なアウトドアを楽しむ方にはちょっと物足りないかもしれない点があります。そのあたりは、時間やプランに合わせて両方を使い分けていきたいですね。
都立9大庭園まとめ
いかがだったでしょうか。文京区は小石川後楽園や六義園といった大名庭園で有名ですが、都内にも魅了的な庭園が数多くあることが分かりました。文京つーしんでも機会があればそれぞれの庭園について詳しく取り上げていきたいと思います。文京つーしんでは、皆様の役に立つ情報を配信しておりますので引き続きよろしくお願いします。
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