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徳川綱吉の政治から見る文京区の歴史 徳川家と文京区

投稿日:2024/08/31by 
徳川綱吉の政治から見る文京区の歴史 徳川家と文京区

文京区は、3代将軍徳川家光に関連する施設が多く見られる一方で、徳川綱吉が将軍であったころのものもあります。では、徳川綱吉の統治していた時代はどのような時代だったのでしょうか。今回は、徳川綱吉の政治から文京区の歴史をまとめてみました。

 

元禄(げんろく)について

元禄とは日本の元号の一つであり、江戸時代の1688年から1704年までの天皇が東山天皇であった期間をさします。この時期は徳川綱吉が江戸幕府の5代目将軍(1680年-1709年)となっています。

元禄の頃には、全国に幕藩体制が敷かれ反乱や戦が少なくなったため泰平の時代が訪れつつありました。一方で、この頃は将軍が従来の征夷大将軍として軍事指揮権を発動して諸大名を従わせる権力編成のあり方が有効ではなくなってきました。

幕藩体制

幕藩体制は、幕府が全国を幕府領と大名領(藩)に分け、大名にその領地と農民を直接支配させる権限を与えた中央政権的な体制のことです。

さらに、幕府は全国を徳川一門の大名である親藩をはじめ譜代大名を配置し、力のある大名を監視しました。この幕藩体制は3代目徳川家光のころにはすでに確立されていました。

文京区に所縁のある大名

現在の文京区でも徳川家と関わりのあった水戸藩や肥後熊本藩細川家などが有名です。

水戸藩

文京区の後楽園や水戸黄門で知られる水戸藩は徳川御三家の譜代大名として参勤交代が免除され常府と称して江戸に常住していました。(詳しくはこちら

肥後熊本藩細川家

文京区肥後細川庭園でも知られている肥後熊本藩細川家は、外様大名でありながら徳川家と親戚関係にあるため、西軍の大大名である九州地方の島津藩に対して徳川家の監視と牽制の役割を担いました。(詳しくはこちら

 

徳川綱吉について

徳川綱吉は、江戸幕府5代将軍です。綱吉は第3代将軍であった徳川家光の四男で、母は家光の側室であった玉(桂昌院)となっています。

徳川綱吉の図

父であった家光が綱吉に儒学を教え込んだため、綱吉は戦国の殺伐とした気風を廃止し、徳を重んずる文治政治を推奨しました。また、綱吉の治世のもとでは、近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉といった文化人も生まれています。

 

徳川綱吉の政治について

徳川綱吉は、4代将軍家綱の頃より続いていた国内の平和と安定に力を入れた様々な政策を行いました。

「武家諸法度」の改訂

その政策の一つとして、綱吉は政権樹立後の天和3年(1683年)に「武家諸法度」の改訂を行いました。

2代目秀忠から続く武家諸法度の第一条には「一文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事(武道を専らたしなむこと)」が命じられていました。

綱吉はこれを改め、「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事(学問と武芸に励み、思いやりの心と忠義を大切にし、礼儀による上下の秩序を保つこと)」としました。

武家諸法度の改定に伴う具体策

綱吉は、「武家諸法度」第一条の指針転換に基づき、儒学・仏教・神道・天文暦学・歌学・絵画などの学問・文化を重視しました。具体的なものでは以下のようなことを行なっています。

儒学

儒学では林鳳岡はやしほうこうを初代の大学頭に任命して幕府機構の中に制度化すると共に、新たに元禄4年(1691年)に湯島に湯島聖堂を建立させました。湯島聖堂には、上野忍が岡にあった林家の私的家塾と孔子廟を移転させ、後に昌平坂学問所となりました。(昌平坂学問所についての詳しい記事はこちら

仏教

綱吉は、新義真言宗僧侶である亮賢りょうけん隆光りゅうこうに帰依し、指定を将軍の安全祈祷をする護持ごじ僧とする一方で、格別の堂宇を建立させました。亮賢には延宝9年(1681年)護国寺の創建を命じ、隆光には貞享4年(1688年)に知足院(護持院)の創建を命じました。

また、仏教に関する政策では国家の官寺である東大寺の大仏殿再建や法隆寺諸堂の修復も行っています。

神道

神道では、天和2年(1662年)吉田神道の萩原兼従はぎわらかねみちの弟子で唯一の神道の道統継承者である吉川惟足よしかわこれたるを幕府神道に任命し、吉田家中心の神道政策をさらに推進させる姿勢を示しました。

天文・暦学

天文・暦学では、幕府碁方の安井算哲やすいさんてつ渋川春海しぶかわはるみ)を京都の土御門泰福つちみかどやすとみに入門させ、「貞享暦」を1684年に採用し、渋川春海を初代の幕府天文方に任命しました。

和歌

和歌に関する研究をする歌学では、北村季吟きたむらきぎん湖春こしゅん親子を歌学方に任命し幕府機構の中に組み込み和歌や古典研究を重視する姿勢を示しました。

絵画

絵画では狩野家に加え、幕府絵師として住吉家を登用し、京に派遣して絵所預土佐家とのパイプを保たせました。

 

かぶき者の出現と弾圧

一方で、旗本・御家人や牢人の中には、このような時代や政策の転換とは対照的に、新しい価値観に適応できず戦国の習慣を頑なに守っていた勢力もいました。

このような「かぶき者」と呼ばれるものたちは、辻斬りや人の飼い犬を殺したりという残虐行為や犬喰いなどの嫌がらせを行うなど刹那的な行動には走っては社会秩序に抵抗していました。

そのため、綱吉は服忌令ぶつきれいや生類憐みの刑といったものを出し学問や文化を重視することで、人を殺傷することが手柄とし主人の死後に追腹を切ることが美徳とする武士の論理を遠ざけていきました。

かぶき者の図

かぶき者

かぶき者と文京区

かぶき者の存在は、文京区の地でも起こっており、貞享3年(1686年)9月には、「大証神祇組じんぎぐみ」と呼ばれたかぶき者の無頼集団(旗本奴はたもとやつこ)が江戸小石川の勧進能かんじんのうで騒ぎを起こしたのをきっかけに200名余りが逮捕されています。

 

このように綱吉の政治は、壮大な建築物の建設を伴う大規模な政策を行うことで学問や文化を重視する将軍の姿勢を人々に印象付けながら、武威の後退を浸透させていきました。

 

文京区にある元禄期の建築物

現在は文教の地と知られる文京区にこのような時代の建築物が見られるのは感慨深いですね。

最後に、文京区でも見られる元禄期の建築物について見ていきましょう。

護国寺

護国寺の創建は天和元年(1681年)2月7日、5代将軍の徳川綱吉の生母である桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山しました。もともとは、幕府所属の高田薬園であったものに、堂宇を建立し、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊としました。号は神齢山悉地院護国寺です。

元禄時代の建築技術の粋を結集した大建造物で、その雄大さは江戸随一と称賛されました。

 

湯島聖堂

徳川5代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、およそ100年を経た寛政9年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました。

明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されましたが、明治4年(1871)これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年の儒学の講筵はその歴史を閉じました。

湯島聖堂本堂

 

徳川綱吉の政治から見る文京区の歴史まとめ

いかがだったでしょうか。文京区が文教の地となる始まりは戦国から泰平の時代への移り変わりの中で生まれてきたものだったようですね。時代背景を知ることで学問の聖地と呼ばれている場所が今まで以上に身近に感じることができるのではないでしょうか。文京つーしんでは皆様の役にたつ情報を配信しておりますので引き続きよろしくお願いいたします。

 

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◼︎ 詳細情報

参考文献

江戸→東京 なりたちの教科書3
淡交社 岡本哲志
日本の時代史15 元禄の社会と文化
吉川弘文館 高埜利彦

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