文京区には江戸時代の徳川家に関する資料が多く残っており、なかでも徳川三代将軍である徳川家光による偉業は文京区の主要なスポットでよく見受けられます。そこで今回は、徳川家光と文京区にある施設や地域との関係をまとめてみました。
徳川家光とは
徳川家光は徳川家三代目の征夷大将軍です。家光の征夷大尉将の在任期間は1623年から1651年の18年間となっており、元号では元和と寛永、正保にわたります。
徳川家光の出生と家族
徳川家光の両親については、父は二代将軍徳川秀忠、母は浅井長政の三女である達子(みちこ)です。家光の幼名は、家康と同じ「竹千代」が与えられ、幼少期は、病弱であり、容姿はあまり美麗ではなかったとされています。また、父秀忠と道子は、家光の弟である国松(忠長)を寵愛しており、次の世継ぎにしようとしていました。
そのようなあまり恵まれたとは言えない家光の出生ですが、家光の乳母である春日局が家康に直訴し、長幼の序を明確にさせ家光を秀忠の後継として認めさせたと言われています。
15人の徳川将軍の系譜を見ると、父親の正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室・御台所が生んだ将軍は、家光のみになっています。このことから、のちの徳川家の系譜では長幼の序は重要視されていないようなので、家光の世継ぎは春日局のおかげといえそうです。
徳川家光の妻(御台所)と側妻(側室)
徳川家光の奥方である御台所は鷹司孝子(本理院)です。そのほかにも側室が数名おり、側室から四代将軍と五代将軍が出ています。
四代将軍である徳川家綱は、側室の宝樹院(ほうじゅいん)側室名は「お楽の方」の子であり、家光の長男となっています。
五代将軍である徳川綱吉は、側室の桂昌院(けいしょういん)通称「玉」の子であり、家光の四男となっています。
徳川家光の制定した主な制度
家光は、寛永12年(1635年)には「武家諸法度」を寛永令として改定し、第二条で参勤交代を制度化しました。そのため、秀忠の時代から続く五街道の宿場をはじめとする街道筋に大きな経済効果をもたらし、やがて庶民の寺社巡りや温泉旅行にも利用されるようになり、日本全土に繁栄をもたらしたとされています。
家光の性格
家光は、後継者争いの際に家康に秀忠の後に将軍になるという自分の立場を明確にしていただいたため、非常に家康を慕っていました。そのことは、家康を祀っている日光東照宮を何度も改築し、自身でも10回以上も参拝に訪れていることからもわかります。
家光は日常でも将軍になってからも、遠乗りや諸大名の邸への御成などで外出することを好んとされています。また、自身でも剣術や武芸を好み、たびたび御前試合や武芸上覧などを催し、剣術では柳生宗矩に師事し、柳生新陰流の免許を受けています。
文京区とのつながり
次に、文京区内で徳川家光と関係の深い場所を見ていきましょう。
家光の乳母の「春日局」と麟祥院
家光の乳母である春日局(幼名:斎藤福)には、子どもが三人いました。福は慶長9年の26歳のときに民部卿の推薦で徳川家光の乳母になります。この際、長男の正勝は家光の雑用係や親衛隊としての役割を持つ小姓(こしょう)として母と共に仕えることになりました。
そのような春日局と関係の深い寺院が文京区湯島4丁目にある麟祥院です。
文京区湯島4丁目にある麟祥院は春日局の菩提寺であり、春日局のお墓と春日局像があります。春日局は家光の乳母だっただけでなく、徳川家の大奥の基礎を作ったとされており、1632年には朝廷より従二位の位を授かり日本最高位の女性に至りました。
また、文京区の向丘の浄心寺では春日局が愛願した地蔵尊をみることができます。
家光の正室「孝子」と伝通院
徳川家光の奥方である鷹司孝子の墓は文京区小石川3丁目にある「伝通院」にあります。
伝通院は徳川家の女方の菩提寺であり、正室の女性や子どもにまつわる神社となっています。そのため、徳川家康の母である「於大の方」をはじめ、二代将軍秀忠の妻「お江の方」のお墓もあります。
小石川上水を神田上水への拡張、本郷台地と駿河台地
家光は、家康の時代から続いていた上水工事にも着手しており、小石川上水を神田上水へと拡張しました。この神田上水は井の頭池を水源としてお茶の水の堀を渡り、暗渠として江戸城へと至りました。またこの頃には、陸続きであった台地を本郷台地(湯島台地)と駿河台地に分断し当時の平川(神田川)の流れを通すという工事も行われています。
上水道は、生活用水として飲むことができる水を人々の住む地域に供給する設備になります。日本では、徳川家康が江戸に入府する際に日比谷周辺までが海となっており、地下を掘っても海水であったため飲用水の確保として小石川上水を作ったのが本格的な上水道の始まりとされています。
水戸初代藩主徳川頼房(よりふさ)と「後楽園」
後楽園の建設をした水戸藩主徳川頼房は、家光から兄弟のような信頼を受けていました。そのため、寛永10年(1630年)には家光から以下のような書状が送られています。
「其方之御事は別而心安思候まま心中をのこさす万談合申事に候、兄弟有之候而もやくにたたす候間、此上は其方を兄弟同前に思候まま、弥万事其心得可有候(そなたのことはわけても心安く思い、何事も相談したいと思っている。兄弟はいても役に立たないので、そなたのことを兄弟同様に思っている。そなたもそう心得て欲しい)」(徳川ミュージアム所蔵)
1629年に頼房が、現在の後楽園である水戸徳川家の小石川屋敷・庭園を築く際にも、家光は水戸藩小石川邸をたびたび訪れ作庭に関与し、自身が手掛けていた「神田上水」を敷地内に通過するように取り入れるなどを指示しており、深い親交があったことが窺えます。
徳川家光と関係の深い地域
文京区は以上のような施設だけでなく地域としても家光時代の様子が窺える場所があります。
千駄木と寛永寺
寛永寺は、寛永期(1624-1644年)の寛永2年(1625年)に天海大僧正(てんかいだいそうじょう)によって創建されました。その後三代将軍徳川家光(在職1623-1651年)の時代には林であった千駄木周辺は寛永寺の寺領となり、千駄木主変にあった多くの木々を徳川家の菩提寺薪材として提供していました。
特に家光は天海に大いに帰依しており、自分の葬儀は寛永寺に行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言しました。その後、四代家綱、五代綱吉の廟は上野に営まれ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となります。
側室「桂昌院」と繋がりのある大奥の奥女中「音羽」
文京区音羽は、徳川家光の側室であり、5代将軍綱吉の生母である桂昌院の信任が厚かった「奥女中の音羽」に由来しています。音羽には、綱吉とつながりのある護国寺もあります。
二代将軍徳川秀忠と深い神社(おまけ)
こんにゃく閻魔「源覚寺(げんかくじ)」
源覚寺は、徳川家の菩提寺である増上寺や伝通院と同じ宗派ということもあり江戸時代には徳川秀忠、徳川家光から信仰を得ていた寺院です。そのため秀忠が寛永9年(1632年)に死没した後、随波上人は1634年から1635年にかけて徳川家の菩提寺である「増上寺」の第18代法主となっています。
文京区と徳川家光のまとめ
いかがだったでしょうか。文京区にはこれ以外にもさまざまな寺院や地域で徳川家の記述が残っている場所があります。文京区の起源がいつのころからはじまったのかを知るためにはこのような記述はありがたいですね。文京つーしんでは皆様の役にたつ情報を配信しておりますので引き続きよろしくお願いします。
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