文京区小日向の茗荷谷駅近くには拓殖大学があり、創立120年以上の歴史の中で内閣総理大臣となった桂太郎や中曽根康弘といった人物が総長を務めていたこともあります。実は、拓殖大学はその創立から日本の政策と密接に関わっている少し変わった大学となっています。そこで今回はこの拓殖大学とそれに関連する時代や人物にについてまとめてみました。
拓殖大学の創立について
初めに拓殖大学の創立について見てみましょう。
拓殖大学は、明治33年(1900年)に「台湾協会学校」として富士見町仮校舎(現在の千代田区九段上)に「台湾開発に貢献しうる人材の育成」を目的に開校されました。当時の校長には陸軍出身の桂太郎が任命されています。
台湾協会学校はその後様々な仮校舎に移り、明治34年(1901年)11月に現在の小石川茗荷谷の本部校舎が建てられます。本部校舎の竣工には、日清戦争中に陸軍の用達業務や土木建設部門でも活躍した大倉喜八郎率いる大倉組が請け負いました。
拓殖大学開校と桂太郎との関係
明治33年(1900年)に台湾協会学校の初代総長となった桂太郎は、翌年の明治34年(1901年)に第11代内閣総理大臣に任命されています。桂太郎のこの目覚ましい跳躍はどうして可能だったのでしょうか。
拓殖大学(旧:台湾協会学校)が設立されたのはどのような時代だったのか
では、台湾協会学校が設立された時代はどのような時代だったのでしょうか。
日清戦争と日清講和条約
明治27年(1894年)に朝鮮の全羅道南道で農民による暴動と東学党の蜂起が重ねて起こり、これを沈めるために清国が軍隊を送ると、日本軍は「朝鮮の独立と改革の推進」を大義名文に清国に宣戦布告をし日清戦争がおこりました。
この日清戦争に日本が勝利した後、両国間では「日清講和条約」が結ばれることとなります。
日清講和条約の内容
日清戦争後に日本と清国が交わした日清講和条約の主な条約の主な内容は以下のようになります。
①朝鮮の独立を認める
②遼東半島、台湾、澎湖島を日本に譲渡する
③賠償金二億両(現在の日本円で約三億円)を支払う
④日本に通商上の最恵国待遇を与えること
当時日清戦争で費やした戦費は二億五千万円程度であり、遼東半島の還付金として六千万円と合わせると戦争によって日本経済は非常に潤いました。
なぜ台湾協会学校を設立する必要があったのか
では、資金のある日本が台湾協会学校を設立する必要があったのでしょうか。
台湾政策の問題
この日清講和条約により台湾を日本の領土とましたが、台湾の舵取りは国家財政からの出費がかさむ一方で重荷とされていました。そのため、日本政府内ではフランスへ一億円での売却案まで出ていたようです。
また、戦争での海外統治の経験が浅い日本では、当時の陸軍総督である乃木希典といったトップの対応が日本の天皇主権の「教育勅語」による統治を目指すなど日本の文化を押し付けるものでした。
台湾への新政策
乃木希典が退任した明治31年(1898年)の後に、総督となった児玉源太郎は民政局長(1898年6月20日に民政長官)として後藤新平を起用します。後藤は、「習慣とか制度は相当な理由があって、必要だからあるので、その理由をわきまえずに未開国に文明国の制度を押し付けるのは、ヒラメの目を鯛の目に取り替えるようなものでうまくいくはずがない」(「生物学の原則」)として台湾経営の基礎を築きはじめます。
台湾事業公債法案と台湾協会の創立
後藤は、台湾経営の試案として明治31年(1898年)に政府に「台湾統治緊急案」を提出しました。それを日本政府政府が「台湾事業公債法案」として承諾し、本格的な台湾当地へと向かっていきます。
台湾事業公債法案の原案の骨格は以下のようになります。
①旧慣習の尊重、警察と行政の一体化による経費の削減
②阿片を主要財源として、さらに外資を募って台湾の拓殖を推進する
③鉄道、築港、上下水道などの公共事業を起こす
この法案をもとに明治31年(1898年)台湾の経済発展を促すための民間組織を設立する計画が海軍中尉であった水野遵によってすすめられ、その趣旨にそって台湾協会(拓殖大学)が設立されました。
台湾協会学校の運営について
当時の台湾教会学校(拓殖大学)の学校運営の経費は寄付により賄われました。この寄付は、以下のような人物が高額寄付者となっています。
中橋徳五郎、三菱財閥二代目総長の岩崎弥之助・三代目の岩崎久彌、三井財閥の三井八五郎右衛門、三井元之助、住友吉左エ門、馬超恭平、近代資本主義の生みの親と言われる渋沢栄一、安田財閥の安田善次郎、浅野総一郎、古河市兵衛、大倉財閥の大倉喜八郎など
高額寄付者は、文京区にも所縁のある当時の日本を代表する財閥や資本家とよばれる人物からの寄付がされており、台湾や中国南部でのビジネスにいかに期待が寄せられていたかがわかりますね。
建学の精神と拓殖大学
最後に、現在の拓殖大学の建学の精神を見てみましょう。
現在の拓殖大学では、建学の精神である「積極進取(せっきょくしんしゅ)の気概とあらゆる民族から敬慕(けいぼ)されるに値する教養と品格を具えた有為な人材の育成」に基づく教育を行っています。
つまり、「意欲的に行動を行い、自ら進んで物事に取り組む気概をもち、様々な人物を尊敬して人柄に慕われるに値する教養と品格を備えた優秀な人材を育成する」といったことのようです。
この建学の精神は、日清戦争で日本の領土となった台湾への実践的な取り組みから学ぶことができる規範と言えそうですね。
拓殖大学からみる台湾政策まとめ
いかがだったでしょうか。拓殖大学の歴史を知ることで文京区を超えて日本という国や明治時代の中心にいた人物のつながりや台湾や中国などの理解を深めることができそうですね。文京つーしんでは皆様に役立つ情報を配信しておりますので引き続きよろしくお願いします。
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